"詩経"カテゴリーの記事一覧
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出自北門、憂心殷殷。
詩経邶風北門の訳。せちがらい詩として有名である。2500年以上前からこのような詩が詠まれていたことは我々に勇気を与えてくれることであろう。詩経の詩は内容の善悪を先に問うものではない。まずあるのは孔子のいう通り思無邪(まじりっ気のない思い)なのだ。
終窶且貧、莫知我艱。
已焉哉、天實為之、謂之何哉。北の門自(よ)り出づること、憂ふ心は殷殷(ぼやり)とせり。
終に窶(やつ)れて且も貧しき、我の艱(くるしみ)を知るもの莫し。
已焉哉(やみぬるかな)、天(あめ)よ實(まこと)に之れを為さむ。之の謂(いへらく)は何ぞ哉(や)。北の門から出てみれば、憂鬱な心がぼんやりと湧きあがる。
とうとう痩せこけてしまって、しかも貧乏だ。俺の苦しみなんざ誰もわかっちゃいねえんだ。
あーあ、もうどうにもなんねーわ、これ。天よ、(お前が)マジこんな状況にしてくれちゃったわけじゃん。その意味って何よ?王事適我、政事一埤益我。
我入自外、室人交徧讁我。
已焉哉、天實為之、謂之何哉。王(おほきみ)の事(つとめ)は我に適(むか)ふ。政事(まつりごと)は一(ひとえ)に埤(あつ)く我に益(ましまし)ならむ。
我の外自(よ)り入(かへ)らば、室(いへ)の人(ひとびと)は交(こもご)も徧(あまね)く我を讁(とが)む。
已焉哉(やみぬるかな)、天よ、實(まこと)に之れを為さむ。之の謂(いへらく)は何ぞ哉。王からの仕事が俺に向かってくる。政務は一方的にぶ厚く俺のものばかりがどんどん増やされてゆく。
俺が外から帰ってみれば、家族が代わる代わるみんなで私を責め立てる。
あーあ、もうどうにもなんねーわ、これ。天よ、(お前が)マジこんな状況にしてくれちゃったわけじゃん。その意味って何かあるの。王事敦我、政事一埤遺我。
我入自外、室人交徧摧我。
已焉哉、天實為之、謂之何哉。王(おほきみ)の事(つとめ)は我に敦くなり、政事(まつりごと)は一(ひとえ)に埤(あつ)く我に遺さるる。
我の外自(よ)り入(かへ)らば、室(いへ)の人(ひとびと)は交(こもご)も徧(あまね)く我を摧(そし)りたらむ。
已焉哉(やみぬるかな)、天(あめ)よ實(まこと)に之れを為さむ。之の謂(いへらく)は何ぞ哉。王からの仕事が俺にばかり増やされて、政務は一方的にぶ厚く俺ばかりに回される。
俺が外から帰ってみれば、家族が代わる代わるみんなで俺をバカにしてくる。
あーあ、もうどうにもなんねーわ、これ。天よ、(お前が)マジこんな状況にしてくれちゃったわけじゃん。その意味って何なんだよ!引越し作業と仕事でほぼ2徹していた時に仕事の休憩時間で訳した。別に仕事が詩のような状態なわけでも家庭がそうなわけでもないんだけど、生活の中で極限状態であることに変わりはないためか、なんか精神状態と詩がハマっちゃっている気はせんでもない。
ちなみに、「あーあ、もうどうにもなんねーわ、これ。」の部分は原文で「已焉哉」で、最初は「もうおしまいだ」という伝統的慣用訳をしていたんだけど、なーんとなくしっくりこなくてやめてしまった。というのも、社会的身分は一定有しており、その上で日常自体のひどい有様を嘆いていることについて「もうおしまいだ」という絶望の句を発するのはまったく間違いではないものの、もっとよい訳があると思ったからである。
そこで「已焉哉」を分解してみると以下のような構成になっている。
已→やむ(止まる、停止する)、おわる→行き詰まり、おしまい
焉→これ、ここ→終焉「焉(ここ)に終わる」などの強調表現
哉(かな)→感嘆の語だから一般的には「もうおしまいだ」という訳が通用されているわけだけど、今回の詩は日常における閉塞感のニュアンスによるものだと思われるので、要はどん詰まり、それを口から語られるような生きた言葉で、しかもそれぞれの語に語彙をしっかりと対応させた訳……! という検討に検討を重ねた結果、
「あーあ(哉)」
「もうどうにもなんねーわ(已)」
「これ(焉)」という訳に相成ったわけである。逐語訳的でありながらしっかりとニュアンスの伝わる自信ある訳だ。えへんえへん。
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