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焚巣館 -三国史記 第二巻 阿達羅尼師今-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/sangokushiki/02kan/01atara.html本日すこしだけ修正した。十九年(西暦172年)二月の「二月、有事始祖廟。京都大疫」という記事について、元の訳は以下の通り。
二月、始祖廟になにかがあった。京都(みやこ)に大いに疫病があった。
「なにかがあった」ってなんだよ……。とはいえ、なにがあったかわからないのだからどうしようもない。漢文翻訳完全初心者の4年前の頃(いやー、ずいぶん経ったもんだなあ、ホント)のブログ記事でも「始祖廟での「事」というのはなにだろうか。有事ということは、いい意味ではないだろうが、よくわからない。」とすっとぼけたことを私は言っている。
で、これについてかなり前に似たような記述が春秋から見つかった。
有事于大廟。仲遂卒于垂。
敢えて直訳的にざっくりと訳せば、「大廟にて有事。仲遂が垂にて死亡」といったところ。これだけでは何が何だかさっぱりわからない。これについて最古級の注釈である左氏伝には次の通り書いてある。
「有事于大廟」について。襄仲が卒去したのに繹(正祭の翌日の小祭)を執り行うのは非礼である。(有事于大廟、襄仲卒而繹、非禮也。
これだけだとまだよくわからないが、人死にが出たのに大廟で「有事」したのが非礼だったという指摘がある。ぼんやりと言葉の趣旨の像が浮かび上がってきた。
これに対する更なる註釈として、唐代に完成した左伝正義を見ると、次のようにある。
"有事"とは"祭"である。仲遂が卒去したのは祭と同日であり、"有事"と省略して書いたのは、繹(小さな祭)を悪の発生源としたからである。(有事、祭也。仲遂卒、與祭同日。略書有事、爲繹張本。)
つまり有事とは祭祀のことだったわけである。人死にが出たのに大廟という厳正な場でお祭りをしたことが非礼だったという記録だと、少なくともそのように当時の春秋学では解釈されたわけである。ああ、スッキリ。
さて、三国史記の編纂は唐より後なので、当然ながら上記の解釈を前提に記されているわけである。これを踏まえて「二月、有事始祖廟。京都大疫」を私が訳すと、次のようになった。
二月、始祖廟にて行事を執り行ったが、京都(みやこ)に大いに疫病があった。
ここでは原文のニュアンスを残すため「"行事"を執り行った」と訳しておくが、本文の意図としては祭祀を暗示しておろう。また、春秋左氏伝の趣旨から見て、この記述は逆説であるから、本文の意図は「始祖廟で慰霊祭を執り行ったのに疫病があった」であったものだと解釈すべきように思う。というわけで、ここに記した内容と同様の趣旨の訳注もホームページに追記しておいた。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 曾子曰愼終追遠章-
本日の更新。曾参の言葉である。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/09ohaariwotsutsushimite.html為政者の徳に影響されて人民の営為も変化するという儒教の考えを「化」あるいは「教化」という。つってもこのブログでは何度も書いていることだけども。上下の道徳ですなあ、と批判的に見ることもできるし、為政者の責任を重く見て享楽放逸や暴虐無道を許容しないための政治倫理とも言える。親への孝と葬儀を重く見る姿勢は、儒教一般に通じるものであると同時に特に曾参にみられる傾向である。この手の話もおそらくブログでは過去に何度もしていると思う。
注疏には孝経に記されるような親への葬儀にかかる儀礼とその精神についてちらほらと記されている。ざっくり読んで「伝統儒教ってこんな感じなんだなー」と思うにはいい章句かもしれない。祖霊崇拝は天の存在と並んで為政者が自らより上位の存在を想定するという伝統儒教においては極めて重要な点である。そのへんは今度またふさわしい場で話しておきたい。
あんまり言うことがない。まあ地味な章句である。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 子曰君子不重則不威章-
18日の更新。孔子の言葉である。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/08kunshiomokarazareba.html注疏の内容は論語をフツーに読んでいて気になる点を解決する註がしっかりついていてなかなか興味深い。
私の書き下しは少し独特なので、一般的なものとしてとりあえず検索して目に付いたこちらから書き下し文を引用してみる。
子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過ちてば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ。
「過ちて改むるに憚ることなかれ」は慣用句となっているし、それ以外の「学べば則ち固ならず」や「己に如かざる者を友とするなかれ」といったフレーズも割と有名であるから、論語を読んでいなくても知っている人はいるだろう。「己に如かざるものを友とするなかれ」は矛盾しているとよくツッコミを入れられるフレーズであるし逆に弁護する文章も世に多く、私もかこに諸々のことを漫慮したものである。ちなみに私は論語を読み始めた当初、「学べば則ち固ならず」というフレーズに感心したのをよく覚えている。つまり学とは、硬直的な思考になるためのものであってはならないのだ。
さて、論語の本章句について、他にも疑問点としてよく挙げられるものがある。それは、ひとつひとつのフレーズは教訓となっているのはわかるとして、全体にまとまりがあると感じられない点である。上記の訳をそのまま分解してみよう。
・重々しい雰囲気がなければ威厳がありません。
・学問をすれば頭が柔軟になります。
・『忠』と『信』の心を大切にして、自分とレベルがあわない者を友としてはいけません。
・過ちがあったのなら、それを改めることをためらってはいけません。これらの内容は、素直に読むと複数の教訓の雑多な詰め合わせのようにしか見えない。それぞれに繋がりを感じられないからだ。なぜ孔子はこのような発言をしたのか、あるいは別々に語った孔子の教訓を孔子の言行を記録するにあたってひとつにまとめたものなのか、さまざまに考察されることも多い。
して今回の注疏では、「一曰(一説には)」と前置きして「言人不能敦重、既無威嚴、學又不能堅固、識其義理。」と述べる。これを私は「人は親切誠実で人情に厚く、おごそかで重々しくなれなければ、威厳がないので学問についても同様に堅固にはできないが、その義理を知識とすることはできるのだと言っているとのこと。」と訳したが、つまりこれは雑多な教訓の寄せ集めに見える本文をひとつなぎの意味のある文章として解釈しているのだ。
……重厚な態度を取れない人は学問も堅固にできない。しかし義理、つまり言葉の意味を知識とすることだけはできる。この言葉にあるのは、知識と実態の乖離である。つまり理性と現世の乖離であり、言語と実在の乖離である。
学術が高度化する以前の論語は実践の学としての色彩が後世のそれよりも強い。もともと孔子の時代の儒学は操馬術や弓術を教科としていた。ところが漢王朝の時代に入り、次第に儒学は六経という文書を主として尊ぶようになり、時代と共にペーパーテストの科挙が現れ、理性を尊ぶ朱子学の台頭、その先には清代考証学というテキストの読解を主とする学問に発展した。学術は高度に、難解に、実証的に発展した一方で、身体性に基づく技術は徐々に薄まっていったわけである。論語は孔子という肉体ある人間を言葉のみ復活せしめ、あるいは行為の一部を言語によってのみ説明して遺したものであるから、この乖離は必然であったのだろう。講師の意図は計り知れぬが、こうした学術の発展に伴う変化が上掲のような論語の解釈を生んだものと感じられる。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 子夏曰賢賢易色章-
4月16日の更新……になってしまった。ミスで。まあいい。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/07kenkenekishoku.html子夏という孔子の弟子の言葉。子夏について知らない人に説明すると、日本にて今なお慣用される「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という孔子の言葉における「及ばざる」は子夏のことである。子夏という弟子と子張という弟子のどちらが優秀かと聞かれた孔子は、子夏を「及ばず」と評し、子張は「過ぎたり」と評した。これについて、「では子張の方が優秀なのでしょうか?」と再び質問された際の孔子の答えが、「そうではない。過ぎたるは猶及ばざるが如し。」であった。真面目過ぎて融通の利かないところがあったとされる。
そういうわけで、現代日本において子夏は一般に地味な印象を持たれている。一般に孔子の弟子で最も優秀な人物と言えば、実績の記録はないが半ば伝説的に孔子の後継者最有力候補だったとされる顔回か、あるいは実際に二国の宰相を歴任して外交力をもって五か国の命運を変えたとされる子貢か、もしくは弟子筋に孟子を有して後に儒教の正統を占めた曾参が挙げられる。しかし、私はこれらに並んで子夏も挙げられて然るべき人物であると思う。
孔子は生前、当時の中国内にあるほとんどの封建諸国を駆けずり回り、更には周王朝に反して王を名乗った東南の呉や楚にも足を運んだ。もちろん、これは不本意な亡命の旅路であり、孔子たちにとっては大変な苦難であったが、これこそが孔子の教えを中国全土に広める契機となった。孔子から直接の教えを受けた現地の人々が新たな弟子として後に儒教が芽吹く土壌と種を用意した。
とはいえ、孔子の旅路は教えを広めること自体が目的ではなく、むしろ不本意な亡命であるから行き先は極めて偶発性に依拠するものである。故に踏み入れられなかった地もあり、それが秦や晋などの北西の諸国であった。史記の孔子世家には、晋との国境にある西河が氾濫して孔子が渡れなかったことが特筆してあり、かの地に孔子が足を踏み入れなかった点は重要なことだと見なされていたのだと思われる。
さて、孔子の死後に北西への布教という遺された仕事を成し遂げたのが子夏である。彼は晋から分裂して後に大国となる魏に仕え、その国侯の師となった。この国侯は後に魏文侯と呼ばれ、当時は新興国であった魏を強国のひとつに押し上げた人物として敬されることになる。
このように有徳有能の国主の師であっただけで十分な功績であるが、魏が大国に成り上がる推進力は、もちろん文侯ひとりの力ではない。彼が優秀な人材を登用したからで、その中でも大役を担ったのが李克・呉起・西門豹といった賢臣である。
李克は国家が穀倉を運営して飢饉に備えることを提案した人物で、これは当時の魏のみならず前近代を通して中華王朝の中心的な福利政策のひとつとなる。更に法律の整備を主張して法経という書を編纂したとされ、この内容がのちに中華統一を果たす秦の躍進の秘訣となる商鞅の法に引き継がれ、更には漢王朝の法を整備した蕭何にまで及ぶという。つまり中華王朝の伝統的な法制度は李克に原点があるともいえるわけだが、彼の師でもあったのが子夏であった。
次に呉起は百戦百勝の将軍で、兵法家としては孫子と並び称され、併せて『孫呉の兵法』とも呼ばれる。また、生涯一度も戦争で敗北したことがなく、実践の用兵家としては孫子に勝るものであった。その彼の師もまた子夏であった。
先に言っておくと、最後の西門豹も子夏の弟子である。彼が最初に当時の魏を視察していると、農民たちが河の氾濫を抑えて滞りなく農業を進められることを願って生贄の儀式を行っていた。まず西門豹はこれを廃止させた。次に灌漑工事に着手し、農業生産高を飛躍的に上昇させた。ちなみに魏が晋から独立できたのは、この事業の成果と言われている。
このように、中華王朝の法と福祉の根本を構築した法律家、孫子と並び称される無敗の将軍、一国を自立させるほどの農業生産向上を行わせしめる政治家の三者を育成したのが子夏だったわけである。
さらに、これは儒教について少し知識がないとわかりづらい成果だけど、儒教には春秋という経典があり、この中心的な解釈を施したのが子夏の弟子の公羊高と穀梁子という二人の弟子である。これは儒教の経典解釈史に極めて大きな役割を果たし、前漢後期の儒者は公羊学派と穀梁学派に別れて儒教を二つに分けるほどの存在であった。この公羊伝と穀梁伝は中華帝国の最後まで一貫して高い権威を占めた注釈書であり、特に公羊学は清末に復興して中国における近代化運動「変法運動」を推進する原動力のひとつにまで至った。
他にも四書五経の『儀礼』の一部は子夏が編纂したものだとされているとか、偽書とされているけど子夏易伝という易経の注釈書を著したという伝説があるほど占術にも達者だったとされている等、まだまだ数多くの子夏のエピソードはあるが、有名な成果だけでも以上の通りである。
さて、本章句を見てみると、これまでの曾参や有子に比べ、前回の孔子の言葉に近くて広がりのある言葉だと感じる。「未だ學ばざると曰ふと雖も、吾は必ず之れを學びたると謂はむ」の部分は孔子の言葉を踏まえ、より踏み込んだところまで話を及ぼしていると見てよいのではないだろうか。その一方で、「父母に事へては、能く其の力を竭くし、君に事へては、能く其の身を致す」は、これ自体ではそれほどには見えないものの、集解では「孔氏はいう。忠節を尽くことは、自らの身を愛さないことだ。」という苛烈な解釈が施されており、なんだかなあ、と思う。
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焚巣館 -論語注疏 学而第一 子曰弟子入則孝章-
本日の更新。孔子の言葉である。
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/rongochuso/01_gakuji/06teishiiritehasunahachikou.htmlこの言葉は結構思い出深いもので、私が孔子および儒教に対する印象最悪の若かりし頃の私が論語を初めて読み始めた頃、孔子に対するイメージが少し上がったものだからである。
というのも、論語は二つ目の章句からいきなり有若のステレオタイプな儒教源泉かけ流しみたいな服従の道徳が出てくるので、私も含めてそういった道徳に反感を有する者が見るとキツイはずである。ところがそれを読んだ当時の私は、これが孔子の言葉ではないことを認識できており、嫌だなあ、と思いつつも、その点を留保することができた。で、その後に登場した孔子の言葉がこれである。
この言葉は典型的な儒教道徳の部分を抜いたとしても、「日常の生活をしっかり成立させることが第一であり、学問はその上で余暇をもってすべきものである」という教訓として十分に成立するため、有若と比べて言葉に広がりがあると感じられた。ちなみに当時の私は、生活等のすべてを犠牲にして何らかの分野に没頭するような存在(それこそ漫画『グラップラー刃牙』のジャックハンマーとか)に強い憧憬があって、孔子の意見にはまったく賛成しなかったのだけど、それでも筋として理解はできたし、ある意味では有若の言葉があったおかげで「こいつは他の人が言うのと少し違うのかな?」という(ずいぶん評論的で上から目線な)気持ちで読むことができたわけである。
今後も紹介できればと思うが、孔子の言葉として論語に掲載されるものは、似たような主旨の弟子の言葉と比べて柔軟であったり、広がりのある言葉なことが多い。実際のところ、論語に掲載された孔子の言葉が本当に孔子の言葉かでさえ、実のところは保証のない話である。それでも……というより、だからこそ、このことが私には奇跡的なことのように感じられる。