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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

被造者の自律とやさしい牧場主の苦悩

焚巣館 -聖経 創世記 第五章 亞當之裔 亞當(アダム)ノ裔(スヱ)-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/04kain_seido.html

 本日の更新。アダムからノアに至るまでの系譜である。聖書には系譜がたくさん出てくる。血筋がとても重視されているからだ。キリスト教は血筋を重んじないなんて嘘っぱちである。イエスの預言者たる資格は血筋によって問われたし、人類はアダムとイヴの子孫だから原罪を背負っているのだ。

 本章をすべて読むのは大変だし、私もただ読んでいてはおそらく頭に入ってこない。無味乾燥な固有名詞の羅列だからだ。今回の翻訳まで私もこれを文字でまともに読んだ覚えがない。音声聖書を進めている要因のひとつもこれで、これは人によるとは思うのだけど、こういう記録は読むより聞いている方が読み飛ばしも起こりづらく、頭に残るし、苦痛も少ない、と思う。読み飛ばしちゃうのはよくない。なんとなくでもちゃんと一度は全容を頭に入れる。これが通読では大切なことだ。

 とはいえ今は特に語ることもない内容なので、以前の第3章の楽園追放の際に語り逃したことでも書いておく。

 まずは上帝(神、天主)について。第3章でも上帝は我儕わなみと自称している。しかも今回は耶和華エホバの名において、である。当該部分の訳を引く。

人は善悪を分別できる。――我々(我儕わなみ)とそっくりそのままに、だ。自らの手をあげて生命の樹も同じように手折ってその果実を食べてしまい、生を永遠にしてしまうやもしれぬ。

 上帝は何を恐れているのか。ここだけ抜き出せばピンと来る人は意外と多いのではないだろうか。論理的ロジカルな理屈というより類比的アナロジカルな感覚として、この種の恐怖は現代の我々にこそ真に迫るものだからだ。そう、AIの台頭である。我々の多くは自ら生み出したアルゴリズムが「人格」や「意識」という名の聖域を侵食することに大小の不安を抱えている。自分たちの『似姿』として想像した存在が……。エデンの園で上帝が抱いた危惧も、これと同じである。上帝の人に対する態度は、創世記11章まで、つまりアブラハムが登場するまで、上帝と人類との葛藤の物語としての一貫性を有している。そしてこれは上帝を個体ではなく『種』として理解した方が納得しやすい。それを思わせる描写がこれからいくつも登場する。

 さて、聖書の上帝といえば、現代サブカルチャーにおいては暴虐の存在としてよく笑いの種にされている。確かに上帝は、これからノアの一家を除き人類を含めた地上のあらゆる生物を洪水で皆殺しにする。そしてソドムとゴモラの街を火と硫黄によって焼き尽くし、さらには自らに忠誠を誓うアブラハムに愛息イサクの殺害を命じる。これらを見て、人間性の欠如した残虐無比の暴虐だと断ずるのは容易い。しかし、それは直接的な人間主義ヒューマニズムであって、上帝を人間と対等の存在として捉えるからこそ生じる発想である。私はヴィーガンではない。むしろ時にヴィーガンを批判することさえある。だからこそ、私には上帝を単なる人間性の欠如した残虐者と一方的に断じがたいのである。

 視点を変えて牧場主と家畜の関係でみれば、上帝はむしろ慈悲深い部類に属する。考えてみてほしい。人間は牧場主の禁を破ってその財産を棄損した。しかもその結果、牧場主と同等の、その種族の尊厳を脅かしかねない能力を獲得してしまったのだ。これでは畜産自体が成立しなくなる恐れがある。家畜に感染症や致命的な遺伝子異常が生じた事態を想起してもらいたい。本件はそれ以上に深刻な問題である。現代の畜産においても、全頭殺処分の判断が下されても致し方のない局面である。

 しかし、この事態にあって上帝は人間をどう扱ったか。いくつかの罰と制限を加えはしたが、殺処分は選ばなかった。エデンの園からの放逐、いわば野生への遺棄という形ではあるが、生存の機会を与えたのである。それどころか、その後の暮らしを案じて上帝は、人間に皮の衣まで用意してやった。やさしい。いや、やさしいを通り越して、むしろ甘いとさえいえる判断ではないか。これは上帝が人間を自らに似せて創造したが故のことかもしれない。洪水に見舞われた地上や硫黄と炎に見舞われたソドムの扱いについて上帝の暴虐を謗るのであれば、同時に我々人類の家畜に対する暴虐についても思いを致す要がある。

 このように見れば、創世記における上帝の倫理観は、実のところ合理性と一貫性を有するものであると理解できよう。サブカルチャー的なメタ視点の「ネタ」から一歩脱した目線を養うことこそ、原典を紐解く妙味である。

 聖書は(よく批判されるように)人間主義ヒューマニズム的な倫理を有しているが、これが近代的なそれと異なるのは、人間の上位存在たる上帝を想定した、間接的な構造を有することである。人間はあくまで、その恩寵によって特別化されるのだ。私は新約聖書の有名なマタイ10:34-38に近代人間主義ヒューマニズム的な個人主義のひとつの萌芽を見るが、これも上帝を通じた間接的な構造となっている。これについてはいずれ改めて触れることもあろう。

 聖書は上帝の存在を介して諸々の原則を成立させている。ゆえに上帝への服従は絶対となる。キリスト教において、イエスは羊飼いに譬えられ、プロテスタントの神職者を牧師と言い、信徒は憐れな子羊とされる。我々が何気なく用いる語彙の端々にも、この構造は深く刻まれているのである。

 ところで、訳しているとき、「お前は食べたというのか!?」という上帝の言葉に『因習村』という語が思い浮かんでしまった。サブカルチャー的なネタである。ネットに毒されるのはよくない。

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html漢文ルビ変換ツール


 ここ数日、ホームページの更新が急激にラクになっている。AIにホームページ用にhtmiのフリガナを振ってくれるソフトを作成させたからだ。これでガンダムのスピードは倍にはならないけど、これでホームページのページ作成作業の手間は激減する。これまでの労苦はなんだったんだってくらい本当にラクになっている。マジでこれまでホームページ更新の障壁になっていた最大級の要因のひとつがこの手間だったので。

 どうせワンボタンでポンと作成できたものだし、せっかくだから漢文翻訳ホームページを作成したい諸君のためにホームページで使用できるようにした。諸君らも漢文を読み、書き下し、翻訳し、そして自らホームページを作成してアップしなさい。そして私のところに報告してもらえるとうれしい。

焚巣館 -漢文ルビ変換ツール-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/tool/ruby.html

 ところでAI生成そのもので書き下し文のルビ打ちを何度も試みてはハルシネーションしまくってまともに機能しなかったので何度もガッカリしたのだけど、ツールの生成なら一瞬。こういう点で生成AIとは人力の出来損ないであって、ミスの生じうる繰り返しの作業をさせるより、繰り返し作業をミスなくおこなえるプログラムを一気に生成させる方がよいという、そんなイメージ。

聖書に分註! フヒヒヒヒヒ!!

焚巣館 -聖経 創世記 第四章 該隱盛怒 該隱(カイン)ノ盛(サカ)リタル怒リ-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/04kain_seido.html

 本日の更新。有名なカインとアベルの逸話である。みんなはこの二人の名をどこで知っただろうか? 私はファイアーエムブレムである。

 本文ではカインの名前について分註に「該隱譯卽得也」とある。カインの語義は「ゲットだぜ!」だったというのであるが、あれ? そうだっけ? そんなことを書いてあった覚えがないため共同新訳を確認すると、

1さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.4.%2525E6%252596%2525B0%2525E5%252585%2525B1%2525E5%252590%25258C%2525E8%2525A8%2525B3

 ……とある。というわけで、どうやらこちらに分註の内容は付されていないらしい。というわけで、英語のキングジェームズ版を確認。

1And Adam knew Eve his wife; and she conceived, and bare Cain, and said, I have gotten a man from the LORD.

https://www.bible.com/ja/bible/1/GEN.4.KJV

訳:そしてアダムはエヴァを知った。こうして彼女は妊娠し、そしてカインを産んで言った。「私は主から男児をたまわった。」

 こちらも共同新訳と同様である。こうなれば現在の中国語訳本を確認したくなってくる。2019年の新訳らしいものがあったので、これを用いる。

 亞當 跟他妻子 夏娃 同房,她懷孕,生了一個兒子。她說:「由於上主的幫助,我得了一個兒子。」她就給他取名 該隱 。

創世記 4:1
https://www.bible.com/ja/bible/3283/GEN.4.1

書き下し:亞當アダム妻子つま夏娃エヴァと房を同じくし、懷孕はらみ、一個ひとり兒子ちのみごを生みり。いはく、上主かみ幫助たすけに由りて我は一個ひとり兒子ちのみご得了えたり、と。すなはに名を該隱と取れり。

 やはりこちらにも分註はない。では、本当にカインが「得る」を意味するのか検索すると出てくるのがこちら。

カインとアベル 2011年9月18日 日曜 夕方の礼拝 羽生市の教会
https://rcj.gr.jp/hanyueikou/message/detail.php?id=370

 彼女は身ごもってカインを生むのでありますが、カインという名前はエバの言葉、「わたしは主によって男子を得た」の「得た」カーナーに由来します。カインという名前は「得る、獲得する」を意味するカーナーを語源とするのです。

 というわけで、分註は代表訳本の訳者が気を利かせて付したものなのであろう。こういう三国史記やら古事記やらで見られるような原語の語義を確認する分註が掲載されているのを見ると、いやあ心躍るわえ。本章には終盤にも、「或曰蓋人是始稱爲耶和華之民云」という分註がある。「あるふみいはく」だ! 「あるふみいはく」! 出たよこれ~。日本書紀や三国史記に幾度となく登場した、あの「一曰」! 「或曰」! 「一書曰」! しかも「蓋し」! 先人においても遠い過去のことは推測するしかなく、そこで断定を避ける慎重な姿勢! テンションぶち上がりの脳汁ドバドバである。フヒヒ。

 ところで、さまようカインを殺そうとする者とは誰であろうか。最初にアダムとイブしか人類がいないのなら、その長子であるカインがそんな目に遭うとは考え難い。獣に殺されるということだろうか? そんなニュアンスとは取れないけど……。そして、アダムとイブから離れたカインの子孫は誰との間に生まれたのだろうか。どうにもアダムとイブ以外の人類が既に地上世界にいたのではないかと感じられる。これは今回の翻訳を通じてではなく、聖書を通読する以前から有している知識で昔から感じていたことだったし、どうせ聖書二千年の歴史の中で億兆と突っ込まれていることであろうから、自分からいちいち深く考察するつもりはないけど。

反逆のイブ

焚巣館 -聖経 第三章 能別善惡 能ク善惡ヲ別ツ-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/03noubetsu_zenaku.html

 本日更新。創世記の第三章。蛇の誘惑とアダムとイブの楽園追放、いわゆるパラダイス・ロストのエピソードである。このあたりは日本語訳でも馴染み深く、序盤ゆえに何度も読んできたはずであるが、自ら翻訳に挑むとやはり印象が変わる。

 もちろん、邪気眼である俺様が聖書の蛇を好むことは言うまでもない。わくわくしながらセリフを訳し、口調にもこだわった。「――上帝とそっくりそのままになってしまうことを、上帝はご存じなのさ。」という蛇の誘惑、これは後に上帝自身の言葉によって正しいことが明らかになる。そもそも、アダムとイヴは死んでいないし、ここで蛇はなにひとつ嘘をついていない。蛇の言葉はすべて事実である。むしろ嘘をついたのは上帝だけじゃないか? とすら思えてくるが、上帝は「『食べてはならぬ。もぎ取ってはならぬ。死に陥ることを恐れよ(共同新訳では、「死んではいけないから」)」と禁じているだけで、食べたら(直ちに)死ぬと断言したわけではない。なので、上帝の言ったことも噓とまでは言い切れない。それを踏まえてみれば、蛇が最初に「上帝は本当に語ったのかね? 『食べてはならぬぞ』という言葉を。」と尋ねたことは、実に巧みな弁舌だというほかない。

 さて、ここでのイブは一般におろかな女として語られがちだ。蛇に騙されて人類がエデンを追放される元凶となった女である、と。伝統的には、だから女はおろかなのだとして女性を蔑視する根拠に用いられてきたし、一方でこれを批判する男女平等主義からは、女性蔑視のためにこのような描写を聖書がこしらえたのだと主張される。私自身、これまでなんとなくイブが蛇にそそのかされて実を食べた描写を単純に男尊女卑の反映だと受け取っていた。確かに前章でのイブはアダムの肋骨から創造された「男性の一部」であり(取之脇骨成女)、本章でもイブの罪によって女性は男性の従属者となることが上帝から宣告されるのだ(夫爲爾綱)。

 しかしながら、イブが知恵の実、本文でいうところの善悪分別の実を食べた理由は、果たして世に言われるような「女のおろかしさ故に蛇に騙されたこと」なのだろうか。

 まず第一に――これは前述の内容とも重複するが――イブは事実に基づいた判断しかしていない。たとえば蛇が「上帝は人間を愛しておられる。ゆえに『この実を食べてよい』と伝えるように私に命じられたのだ。」などとイブに吹き込んでいたなら、それこそ「おろかな女が蛇に騙された」と言って差し支えないかもしれない。しかし、事実がこれと異なる点は、一般に驚くほど見過ごされている。

 第二に、イブは何を求めて善悪分別の実を食べたのか、という問題である。たとえば蛇がこのように誘惑していればどうか。

「ひとたびその実をお前さんが口に含めば、鼻腔を抜ける芳香はこれまで口にしたいかなる果実をも凌駕し、お前さんの舌に触れた瞬間、世界のあまねく美味も泥を噛むに等しく成り下がるだろうね。」

 このように美食の快をもって蛇が誘惑していれば、これが事実であってもそうでなくとも、これに応じて上帝の命に背いたイブは、おろかと言って差し支えない。しかし、イブが求めたものは何であったか。蛇が提示したものは何であったか。それは善悪の分別ができること(能辨善惡)である。そしてそれは、蛇の言葉によれば、「上帝とそっくりそのままになってしまうこと(彷彿上帝)」に他ならない。イブが求めたのは単なる果実の甘美ではなく、上帝(神、天主、エホバ)と等しき能力を手に入れることだったのだ。並々ならぬ野心の発露である。果たしてこれをおろかであると断じることができようか?

 もちろん、これをもってしてもイブをおろかしさゆえに蛇にたぶらかされたのだと論じることは可能である。上帝によって土から創造された塵に等しき身でありながら、その分際をわきまえず、創造主と並ぶ存在たらんとして野心と好奇心に身を焦がし、上帝の定めた絶対の法を犯したイブ。彼女はやはり大罪人であり、その所業はおろかしきこと甚だしいものである、と。これはこれで筋の通った議論であり、なんとなれば私はこれを一理あるとさえ思う。

 しかしながら、そのように断じた時点で、もはや「女は無知でおろかでのろまで男が庇護せねばなにもできぬ。ゆえに女は男に従属せねばならぬのだ。」とし、その根拠に聖書の本章を持ち出すことはできなくなる。そのおろかしさは、天に届かんとして建てられたバベルの塔のごとく、知性の火を盗み取ったプロメテウスのごとく、真理を曲げること能わずに獄へ繋がれたガリレオのごとく語られなくてはならない。真実を知ることの災厄と引き換えに神々への従属から人間を解放したパンドラを罵るのであれば、エジプトでの奴隷時代を懐かしむ者たちと共にモーセを罵るがよい。イブは自らのおろかしさゆえに無自覚のまま蛇に騙された憐れな愚者ではない。自らの意思で自立を求めた自覚的な反逆者なのだ。

 楽園追放が自由と解放の物語と解釈であることは私でさえ気づくほど自明にことであって、これは今回の翻訳を通じた調査で初めて知ったことであるが、どうやらロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニンも、神話における蛇(サタン)の役割に注目し、『神と国家』において、次のようにサタンの自由への反逆を顕彰したようである。

The Project Gutenberg eBook of God and the State, by Mikhail Aleksandrovich Bakunin
https://www.gutenberg.org/cache/epub/36568/pg36568-images.html

「彼(エホバ)は、知恵の樹の実に触れることを彼らに明確に禁じた。したがって彼は、自己に対するいかなる理解も欠いた人間が、永遠の神、すなわちその創造主にして主人の前で、永遠に四つ這いの獣のままでいることを望んだのである。」

「サタン、永遠の反逆者、最初の自由思想家、そして世界の解放者。彼は、人間にその獣じみた無知と従順を恥じさせる。彼は人間を解放し、不服従を促して知恵の実を食べさせることによって、人間の額に自由と人間性の刻印を押すのである。」

 しかしながら、同書をどれだけ確認しても、イブはアダムの付帯物として「アダムとイブ(Adam and Eve)」という形でしか言及されていなかった。ところが聖書の本文では、なぜ善悪分別の実を食べたのかという上帝の問いに対し、アダムが蛇について触れず、実行犯がイブであり、この状況をつくりあげたのが他ならぬ上帝であると弁明したのに対し(爾以婦賜我、與我爲偶、婦予我菓、而我食之)、イブは蛇との直接的な交渉が存在したことを認めている(蛇誘我食之耶)。これはイブこそが上帝と並ぶ存在になりたいと最初に願って罪を犯した最初の人間であることを示す、小さいが確たる差異のはずである。バクーニンのみならず、サタンの顕彰やアダムとイブの楽園追放を解放の物語とする解釈は世にあふれているが、人間における最初の反逆者がアダムではなくイブであったこと、ひいてはその役割が男性ではなく女性であった事実だけは常に無視されている。

 この事実に目を向け、ふたたび検討することには、価値があるかもしれない。

これからについて

 今後の予定としては、とりあえず漢訳聖書の創世記を11章のバベルの塔のエピソードまで掲載してから一旦停止。訳はもう少し先までやっているのだけど、アブラハムが登場する直前ということでキリがいいので。ここまでがキリスト教における具体的な教義以前の世界観みたいな感じ?

 で、翻訳のストックはアホみたいにたくさんあるので、そちらの掲載に集中。それもあちこちに浮気はしない。漢訳聖書創世記11章の次は、すでにブログにも訳を掲載している仏教の律蔵の訳を冒頭の悟りを開いたところから最初の弟子をとる初転法輪まで。なんといっても仏教の開祖たるゴータマ・ブッダ自身の伝記ともいうべき内容である。諸宗派共通の内容であり、仏教を顧みる上で基礎中の基礎、教義や解釈の前提となる一種の土台だ。

 という風に、キリスト教と仏教という現代宗教の二大巨頭における土台が漢文訳から学べるというところまで整えたところで、これまで何度もやるやる言って全然やっていない論語注疏を掲載することにする。言うてもうちのホームページは漢語圏の典籍が中心であり、俺の興味もそちらが第一なので、やはり土着の漢籍こそ本分のはずである。その中でも第一はなんといっても論語だ。最上至極宇宙第一の書である。論語注疏は一年以上かかるかもしれないけど、特別なにかない限りは浮気はしない。さっさと掲載する。なぜなら本ホームページの土台であり背骨となるべき典籍だからだ。

 優先順位を決めて完遂する姿勢は、仕事のみならず趣味の場でも貫くべきである。というのも、趣味だからいい加減でいいと甘えていると、ふとした瞬間に仕事の場でも甘えが表に出てしまう。そういうことを仕事でさんざん自覚させられているため、ホームページの更新も最低限しっかりと筋を通して取り組んでいくことにする。読んでいる人も多くないホームページなんだけども。