焚巣館 -聖経 創世記 第五章 亞當之裔 亞當(アダム)ノ裔(スヱ)-
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本日の更新。アダムからノアに至るまでの系譜である。聖書には系譜がたくさん出てくる。血筋がとても重視されているからだ。キリスト教は血筋を重んじないなんて嘘っぱちである。イエスの預言者たる資格は血筋によって問われたし、人類はアダムとイヴの子孫だから原罪を背負っているのだ。
本章をすべて読むのは大変だし、私もただ読んでいてはおそらく頭に入ってこない。無味乾燥な固有名詞の羅列だからだ。今回の翻訳まで私もこれを文字でまともに読んだ覚えがない。音声聖書を進めている要因のひとつもこれで、これは人によるとは思うのだけど、こういう記録は読むより聞いている方が読み飛ばしも起こりづらく、頭に残るし、苦痛も少ない、と思う。読み飛ばしちゃうのはよくない。なんとなくでもちゃんと一度は全容を頭に入れる。これが通読では大切なことだ。
とはいえ今は特に語ることもない内容なので、以前の第3章の楽園追放の際に語り逃したことでも書いておく。
まずは上帝(神、天主)について。第3章でも上帝は
人は善悪を分別できる。――我々(我儕 )とそっくりそのままに、だ。自らの手をあげて生命の樹も同じように手折ってその果実を食べてしまい、生を永遠にしてしまうやもしれぬ。
上帝は何を恐れているのか。ここだけ抜き出せばピンと来る人は意外と多いのではないだろうか。
さて、聖書の上帝といえば、現代サブカルチャーにおいては暴虐の存在としてよく笑いの種にされている。確かに上帝は、これからノアの一家を除き人類を含めた地上のあらゆる生物を洪水で皆殺しにする。そしてソドムとゴモラの街を火と硫黄によって焼き尽くし、さらには自らに忠誠を誓うアブラハムに愛息イサクの殺害を命じる。これらを見て、人間性の欠如した残虐無比の暴虐だと断ずるのは容易い。しかし、それは直接的な
視点を変えて牧場主と家畜の関係でみれば、上帝はむしろ慈悲深い部類に属する。考えてみてほしい。人間は牧場主の禁を破ってその財産を棄損した。しかもその結果、牧場主と同等の、その種族の尊厳を脅かしかねない能力を獲得してしまったのだ。これでは畜産自体が成立しなくなる恐れがある。家畜に感染症や致命的な遺伝子異常が生じた事態を想起してもらいたい。本件はそれ以上に深刻な問題である。現代の畜産においても、全頭殺処分の判断が下されても致し方のない局面である。
しかし、この事態にあって上帝は人間をどう扱ったか。いくつかの罰と制限を加えはしたが、殺処分は選ばなかった。エデンの園からの放逐、いわば野生への遺棄という形ではあるが、生存の機会を与えたのである。それどころか、その後の暮らしを案じて上帝は、人間に皮の衣まで用意してやった。やさしい。いや、やさしいを通り越して、むしろ甘いとさえいえる判断ではないか。これは上帝が人間を自らに似せて創造したが故のことかもしれない。洪水に見舞われた地上や硫黄と炎に見舞われたソドムの扱いについて上帝の暴虐を謗るのであれば、同時に我々人類の家畜に対する暴虐についても思いを致す要がある。
このように見れば、創世記における上帝の倫理観は、実のところ合理性と一貫性を有するものであると理解できよう。サブカルチャー的なメタ視点の「ネタ」から一歩脱した目線を養うことこそ、原典を紐解く妙味である。
聖書は(よく批判されるように)
聖書は上帝の存在を介して諸々の原則を成立させている。ゆえに上帝への服従は絶対となる。キリスト教において、イエスは羊飼いに譬えられ、プロテスタントの神職者を牧師と言い、信徒は憐れな子羊とされる。我々が何気なく用いる語彙の端々にも、この構造は深く刻まれているのである。
ところで、訳しているとき、「お前は食べたというのか!?」という上帝の言葉に『因習村』という語が思い浮かんでしまった。サブカルチャー的なネタである。ネットに毒されるのはよくない。
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