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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

人の自律と上帝の契約

焚巣館 -聖経 創世記 第九章 立約之徵 立約ノ徵(シルシ)-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/09ritsuyaku_no_chou.html

 本日の更新。これでノアの方舟のエピソードは終了である。ここに上帝と人の新たな関係が契約によって再構築された。立約の徴は虹である。

 これまでの経緯を振り返ってみよう。最初、エデンという「囿」に置いた人間について、上帝は自律した存在となることを望まなかった。上帝はこの時、人間に何不自由なく給餌していたのである。しかし、人間は上帝の禁を破って自律した存在となったことで、「囿」から放逐された。「囿」とは、動物などを放し飼いにするための遊園を指す。ここで人間は、もはや飼育される存在ではなくなったのだ。もちろん、依然として上帝の管理下にあるという立場に変わりはなかったが。

 エデンから放逐された人間は、上帝に管理されつつも、自らの意思によって食料を自給し、地上で繁栄していった。しかし、人間が上帝の一族と交わるようになったことで、上帝は種としての危機に陥る。その結果、一度はノアの一家を除いて人類は根絶やしにされてしまった。ところが、ここで上帝は、なぜか「人類の剪滅を二度と行わない」ことを誓い、またしても人間との関係を再編する。それが今回の「契約」である。

 これはどういうことか。契約の内容は、「上帝が二度と人間の剪滅をしないこと」、そして「地上のあらゆる動植物を人間の自由にしてよいこと」である。つまりこれは、上帝と人が直接的に交わらないための一線を明確に引くこと、すなわち棲み分けの契約なのだ。

 本来、契約とは対等な者同士の手段である。もちろん、人と上帝とは対等ではない。しかし、これまでの聖書の記述を解剖してみると、人と上帝は「生命」の点では対等ではないものの、「善悪の分別」の面では対等であるといえる。そのことは、上帝耶和華エホバ自らが次のように述べている通りだ。

22上帝耶和華エホバは言った。「人は善悪を分別できる。――我々とそっくりそのままに、だ。自らの手をあげて生命の樹も同じように手折ってその果実を食べてしまい、生を永遠にしてしまうやもしれぬ。

 その意味で、人は「半分だけ上帝」なのだ。上帝と人間は近しい存在であるからこそ、一線を引かなければノア以前のように交雑してしまう。この契約は、上帝と人が直接的に交わらないための、合理的かつ戦略的な棲み分けなのである。

 この棲み分けの徹底ぶりは、本章で上帝が人間に与えた許可にも表れている。上帝は人間に対し、地上のあらゆる動物を食物として与えると宣言した。かつてエデンの「囿」で、上帝の手から給餌されていた被造者が、今や地上という領地において、他の生命を支配し、消費する権利を上帝公認の上で委譲されたのである。

 これこそが、自律した人間に最適化された支配の形であった。上帝は人間を、自身の庇護下にある愛玩動物として扱うことをやめた。そして、地上の他の動物に対する支配者としての自由を認める代わりに、一定の戒律という制限を加えた。人間は、有限の命の中で地上の支配を任されることになったのである。

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炎の剣を持たされたケルビムって終盤にボスとして再登場しそうだよね

焚巣館 -聖経 創世記 第七章 水溢於地 水ハ地に溢ル-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/06suiitsu_ochi.html

 本日の更新。ついに大地に水があふれて生物が剪滅される。これはちょっとしたスペクタクルですよ。ちょっとしてないか。聖書の中でも最大級の災厄である。

 ここで地上のすべてが一旦リセットされる。ということは、これまでの物語において登場した諸々からもリセットされた要素があるはずである。まず、エデンについて確認してみよう。ふりかえってみると第二章には次のような描写があった。

10埃田 エデン には、園に流れ入り、灌溉にも資する河があり、中では四つの支流と分かれていた。
11ひとつは比遜 ピション といい、哈腓拉 ハビラ に濯いで廻っている。その地は金を産出する。
12その金は最も精粋で、また珍しい宝玉である碧玉 ラピスラズリ を産出する。
13ふたつめは其訓 ギホン といい、古實 クシュ を囲んで流れていた。
14三つめは希底結 ヒデケル といい、亞述 アシュル の東に流れる。四つめは百辣 ユーフラテス という。

 そう、聖書におけるエデンは天上世界だとか異次元だとかに存在しているとは明記されていない。むしろ百辣 ユーフラテス のような、現代人にもよく知られた地名がしっかりと記されている。エデンは具体的にメソポタミアのあたりに存在していたと思われる。……だとすれば、この大洪水によってエデンもすべて水没しているのではないか。見落としがちな点であるが、これはなにげに重大である。

24こうして彼らを放逐して追い出すと、埃田 エデン の園の東に[口氷] ケルビム を置いて ほのお の剣を与え、指揮は何も定めなかった。このようにして生命の樹への道を防ぎとめることにしたのである。

 ということは、第三章で思わせぶりに登場した智天使ケルビムも炎の剣や生命の樹と共に流されている。や、さすがに洪水の前に避難していると思うけど、素直に読めば、少なくとも生命の樹は水没しているのではないだろうか。ケルビムは終盤で再登場するボスになると思っていたのに……。

 どうでもいい話だけど、俺は生来の邪気眼なので小学生の時には既に天使九位階を英名と漢名の両方で暗誦できるようになっていた。なんという記憶力の無駄遣いだ。影響を受けたのは『女神転生』『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』等など、当時をふりかえってみると小学生で触れるような作品か? と思うようなアレであるが、週刊少年ジャンプで連載していたりとか、スーパーファミコンのゲームであったり、小学生の触れてよいものであったはずである。今現在、聖書の訳なんぞに乗り出しとるのもその延長線である。

16該隠カイン耶和華エホバから追放されて流離し、埃田エデンの東の挪得ノドの地に向かってそこに住むことになった。
17該隠カインと妻は寝室をともにし、懐妊して息子を生んだ。以諾エノクと命名したのは、その時に城垣を建てていたことから、息子の名はそこから呼称したものである。
18以諾エノク以臘イラドを生み、以臘イラド米戸雅利メフヤエルを生み、米戸雅利メフヤエル馬土撒利メトシャエルを生み、馬土撒利メトシャエル拉麦レメクを生んだ。
19拉麦は妻を二人めとった。ひとりの名は亞大アダ、もうひとりの名は洗拉ツィラ
20亞大アダ雅八ヤバルを生み、テントに住んで牧畜をする者の先祖となった。
21次に猶八ユバルを生み、太鼓や琴、品や簫といった楽器演奏者の先祖となった。
22洗拉ツィラ土八該隠ドバルカインを生み、銅や鉄の工芸師となり、娘を生んで拿馬ナアマと名付けた。
23拉麦レメクは妻の亞大アダ洗拉ツィラに言った。「拉麦レメクの婦人よ、必ず我が声を聞き、必ず我が言葉に従え。私は我が人を殺して自らをも傷つこう。童子を戮して自らも傷つこう。
24該隠カインを殺して必ず七倍の罰を受けるのならば、拉麦レメクを殺せばその者の受ける罰は七十七倍とならぬことがあろうか?」○

 また、このようにカインと子孫についても第四章に長々と記されており、なんだか民族や職業の起源譚のような記述も付されているが、これらもすべて流されているはずである。あーあ、なんだったんだよ、この話。

 ちなみに、母方からカインの血筋が入っていてもおかしくないんじゃないかな、とか想像したんだけど、どうやら主流派キリスト教神学においてそれは異端の考えらしい。へーって感じ。他にもエデンの所在についても、すげー高い山の上にあって無事だった説とか、洪水前に天上へ移送された説とか、洪水で完全に破壊されて実はユーフラテス川などの地名も現在のものは後からエデンの川から勝手に名前をいただいた説とか、諸説さまざまである。

 重い歴史の積み重ねのあるキリスト教神学であるから、これらの問題についても先人が既にさまざまな解釈をおこなっている。紐解くと面白いのだろうけど、漢籍だけで今の俺にはいっぱいっぱいである。

上帝という種

焚巣館 -聖経 創世記 第六章 翦滅於地 地ヨリ翦滅(センメツ)ス-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/06senmetsu_ochi.html

 本日の更新。本章から大洪水、いわゆる『ノアの方舟』のエピソードに突入する。以後、4章にわたり繰り広げられる、聖書初の長編ともいうべき物語だ。今回はその冒頭である。

 今回の大洪水は、後年のソドムとゴモラの滅亡と並び、上帝による苛烈な審判の双璧として語られる、もっとも有名な事件のひとつであるが、その規模は他の追随を許さない。なんといってもノアの一家以外のすべての人類が死に絶えたのだ。現生人類は、聖書の語るところによれば、アダムとイヴの末裔であると同時に、ノアの子孫でもある。つまり、これによってノア以前の人類の身体のみならず、その営為も文化もすべてが水底へと沈められたのである。人間だけではない。地上のあまねく種族の動物も雌雄の一対を除いてすべて殺された。上帝の罰とは、時にこれほど重いものなのだ。

 ……ということなんだけど、この事件における重大な要因であるにもかかわらず、あまり一般に知られていない事項がある。そもそもノアの時代に洪水で剪滅された人類の罪とはなんだったのか、それがほとんど知られていない。ソドムの市における罪が男色であったと解され、広く知れ渡っているのとは対照的である。当時の人類の罪は本章の冒頭に”わかりづらく”書いてある。その部分を引用してみよう。

1-2人民が地に繁殖して育まれた女子、彼女らの容姿は艶やかで麗しく、それを見た上帝の息子たちも、遂にはどれにしようかと迷いながらそれらのうちから選び取り、娶って奥方とするようになった。
3耶和華エホバは言った。「人は欲をほしいままにするようになってしまった。我が神霊がいつまでのあやつらの中に入れ込んだままにしておくようなことがあってはならぬ。」こうしてもはや彼らの生命の限りは一百二十年となるに至った。
4当時、世には偉丈夫がいた。上帝の息子と世間の人間の女が寝室を同じくすることにより、その英才と武威を育んだ、太古からいつも名声がつとに広く明らかにされてきた者たちである。○

 これがノア一家以外の人類が皆殺しにされる前の人類の状況である。なんとなく、何が問題であるかはわかるけど、いろんな意味でわかりづらい。

 まあ、そのわかりづらさの要因のひとつは訳文にある。単純に俺の訳文が読みづらい。これは当該部分の漢文が日本語にそのまま逐語的に違和感なく訳すのが難しく、こなれた訳にすると意訳をせざるを得ない感じで、結果として逐語訳的にしたという判断によるものだ……と言い訳しておく。一応、意味は分かってもらえると思うのだけど、もっとわかりやすい訳文として共同新訳を引用する。翻訳サイトを開設しておきながら、自分の訳がわかりづらいからと別の訳を持ってくるのは自分でもどうかと思うけど。

1さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 2神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。 3主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 4当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.6.%2525E6%252596%2525B0%2525E5%252585%2525B1%2525E5%252590%25258C%2525E8%2525A8%2525B3

 こちらではネフィリムという固有名詞が登場する。要はどういうことか。ノア以前、当時の地上には人類が繫栄していた。そして人類の女性が美しかったので、上帝の子が人との間に子を生んだというのだ。もちろん内容からいって一人ではない。たくさんの上帝の子と人との間に生まれた子が地上に繁栄し、これらはネフィリムといった。本文からは、どうにも歴史上の英雄はすべてネフィリムだった、というような含意を感じる。

 半神半人の類が英雄とされる人物の英雄譚は東西の歴史に広く顕れる。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスはその典型であるが、ギルガメッシュ叙事詩のギルガメッシュも系譜の3分の2が神であり、日神や月神の子孫を自称したインド諸王の伝説や天皇や諸貴族の祖先を神とする日本神話もこの類型に入れてもよいだろう。こうした英雄が地上に増えていった……というのが聖書の筋書である。

 この現状について上帝は善しとしなかったようだ。漢訳版では、「人は欲をほしいままにするようになってしまった。我が神霊がいつまでのあやつらの中に入れ込んだままにしておくようなことがあってはならぬ。」とあり、共同新訳では「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」とある。対応するのは、「人は欲をほしいままにするようになってしまった。」と「人は肉にすぎないのだから。」であるが、だいぶ話が異なるように見える。原文に近いのは後者であり、ただし原語のニュアンスとして「肉(肉体、バーサール)」には欲を生み出す穢れたもの、有限の朽ちるべきもの、堕落したものとしてのニュアンスがあり、霊(ルアハ)との対比としての含意がある。

 さて、前回の記事では上帝と人の関係をAIや牧畜で譬えた。今回の事態はさらに深刻である。人に対する上帝の立場をAIや家畜に対する人に置き換えれば、アダムとイブの逸話と比べても深刻に倫理、そして上帝という種の存在の根底を揺さぶるものだからだ。ちなみに次の第5節以降、突如として神は「人間が堕落して罪を犯すようになったから絶滅させる」という話を始める。しかし具体的な行為についての記述は一切ない。

5耶和華エホバが世の人を概観してみると、悪をなしてどこまでも広がり満ち、心に企図されているものといえば、いつも悪の思念を懐いていたのだった。
6ここで耶和華エホバは既に世の人を創造したことについて、翻って後悔の心が現れ、哀しみとともにそのことを憂いだ。
7耶和華エホバは言った。「これから私に創造された人間を、地より翦滅する。そして犠牲の家畜や昆虫、飛ぶ鳥にもそのようにしよう。そうだ、これらは私によって作られたものであることは確かだが、私は後悔するばかりだ。」
8ただ挪亞ノアだけが耶和華エホバの御前において、恩寵を受けることができた。○

 実はこれ以降の物語は、第1~4節がなくても話は通じる。むしろスッキリするくらいだ。もし第5節から物語が始まっていれば、それは牧畜の譬喩でいえば、単なる主人の期待に応えられなかった家畜の処分、AIの譬喩なら出来損ないのAIのデリート、そのような話で済む。しかし、あえて冒頭に置かれた上帝の子と人類の女の交わり、そして英雄ネフィリムの誕生が事態を大きく複雑にしている。

 これらは多角的な考察と読解の材料となるが、ここでは、これまで論じてきた『我儕』という一人称についてのみ触れておく。上帝の子が登場したことで、上帝が孤独な単一の存在ではなく、ある種の「種族」的な存在であることがここで暴露されている。もちろん近現代的な遺伝などの概念に基づく厳格な生物的種の枠組みでとらえる必要もないし、とらえられるものでもないだろう。ただし、人類を上帝の子とする語は聖書において、特に新約の中に数多く登場するが、ここでの意味はそれに当てはまらない。むしろ人類と明確に区別されていることは留意すべきである。『我儕』という語の含意も、やはりここで複数形の上帝エロヒームを想定せずにはいられない。

 こうした天の情勢については今後も断片的に聖書内にて登場し、これが新約聖書の最終章であるヨハネ黙示録によってしっかりと決着するわけであるが、これについてはまた論じよう。

被造者の自律とやさしい牧場主の苦悩

焚巣館 -聖経 創世記 第五章 亞當之裔 亞當(アダム)ノ裔(スヱ)-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/04kain_seido.html

 本日の更新。アダムからノアに至るまでの系譜である。聖書には系譜がたくさん出てくる。血筋がとても重視されているからだ。キリスト教は血筋を重んじないなんて嘘っぱちである。イエスの預言者たる資格は血筋によって問われたし、人類はアダムとイヴの子孫だから原罪を背負っているのだ。

 本章をすべて読むのは大変だし、私もただ読んでいてはおそらく頭に入ってこない。無味乾燥な固有名詞の羅列だからだ。今回の翻訳まで私もこれを文字でまともに読んだ覚えがない。音声聖書を進めている要因のひとつもこれで、これは人によるとは思うのだけど、こういう記録は読むより聞いている方が読み飛ばしも起こりづらく、頭に残るし、苦痛も少ない、と思う。読み飛ばしちゃうのはよくない。なんとなくでもちゃんと一度は全容を頭に入れる。これが通読では大切なことだ。

 とはいえ今は特に語ることもない内容なので、以前の第3章の楽園追放の際に語り逃したことでも書いておく。

 まずは上帝(神、天主)について。第3章でも上帝は我儕わなみと自称している。しかも今回は耶和華エホバの名において、である。当該部分の訳を引く。

人は善悪を分別できる。――我々(我儕わなみ)とそっくりそのままに、だ。自らの手をあげて生命の樹も同じように手折ってその果実を食べてしまい、生を永遠にしてしまうやもしれぬ。

 上帝は何を恐れているのか。ここだけ抜き出せばピンと来る人は意外と多いのではないだろうか。論理的ロジカルな理屈というより類比的アナロジカルな感覚として、この種の恐怖は現代の我々にこそ真に迫るものだからだ。そう、AIの台頭である。我々の多くは自ら生み出したアルゴリズムが「人格」や「意識」という名の聖域を侵食することに大小の不安を抱えている。自分たちの『似姿』として想像した存在が……。エデンの園で上帝が抱いた危惧も、これと同じである。上帝の人に対する態度は、創世記11章まで、つまりアブラハムが登場するまで、上帝と人類との葛藤の物語としての一貫性を有している。そしてこれは上帝を個体ではなく『種』として理解した方が納得しやすい。それを思わせる描写がこれからいくつも登場する。

 さて、聖書の上帝といえば、現代サブカルチャーにおいては暴虐の存在としてよく笑いの種にされている。確かに上帝は、これからノアの一家を除き人類を含めた地上のあらゆる生物を洪水で皆殺しにする。そしてソドムとゴモラの街を火と硫黄によって焼き尽くし、さらには自らに忠誠を誓うアブラハムに愛息イサクの殺害を命じる。これらを見て、人間性の欠如した残虐無比の暴虐だと断ずるのは容易い。しかし、それは直接的な人間主義ヒューマニズムであって、上帝を人間と対等の存在として捉えるからこそ生じる発想である。私はヴィーガンではない。むしろ時にヴィーガンを批判することさえある。だからこそ、私には上帝を単なる人間性の欠如した残虐者と一方的に断じがたいのである。

 視点を変えて牧場主と家畜の関係でみれば、上帝はむしろ慈悲深い部類に属する。考えてみてほしい。人間は牧場主の禁を破ってその財産を棄損した。しかもその結果、牧場主と同等の、その種族の尊厳を脅かしかねない能力を獲得してしまったのだ。これでは畜産自体が成立しなくなる恐れがある。家畜に感染症や致命的な遺伝子異常が生じた事態を想起してもらいたい。本件はそれ以上に深刻な問題である。現代の畜産においても、全頭殺処分の判断が下されても致し方のない局面である。

 しかし、この事態にあって上帝は人間をどう扱ったか。いくつかの罰と制限を加えはしたが、殺処分は選ばなかった。エデンの園からの放逐、いわば野生への遺棄という形ではあるが、生存の機会を与えたのである。それどころか、その後の暮らしを案じて上帝は、人間に皮の衣まで用意してやった。やさしい。いや、やさしいを通り越して、むしろ甘いとさえいえる判断ではないか。これは上帝が人間を自らに似せて創造したが故のことかもしれない。洪水に見舞われた地上や硫黄と炎に見舞われたソドムの扱いについて上帝の暴虐を謗るのであれば、同時に我々人類の家畜に対する暴虐についても思いを致す要がある。

 このように見れば、創世記における上帝の倫理観は、実のところ合理性と一貫性を有するものであると理解できよう。サブカルチャー的なメタ視点の「ネタ」から一歩脱した目線を養うことこそ、原典を紐解く妙味である。

 聖書は(よく批判されるように)人間主義ヒューマニズム的な倫理を有しているが、これが近代的なそれと異なるのは、人間の上位存在たる上帝を想定した、間接的な構造を有することである。人間はあくまで、その恩寵によって特別化されるのだ。私は新約聖書の有名なマタイ10:34-38に近代人間主義ヒューマニズム的な個人主義のひとつの萌芽を見るが、これも上帝を通じた間接的な構造となっている。これについてはいずれ改めて触れることもあろう。

 聖書は上帝の存在を介して諸々の原則を成立させている。ゆえに上帝への服従は絶対となる。キリスト教において、イエスは羊飼いに譬えられ、プロテスタントの神職者を牧師と言い、信徒は憐れな子羊とされる。我々が何気なく用いる語彙の端々にも、この構造は深く刻まれているのである。

 ところで、訳しているとき、「お前は食べたというのか!?」という上帝の言葉に『因習村』という語が思い浮かんでしまった。サブカルチャー的なネタである。ネットに毒されるのはよくない。