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焚巣館 -聖経 第三章 能別善惡 能ク善惡ヲ別ツ-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/03noubetsu_zenaku.html本日更新。創世記の第三章。蛇の誘惑とアダムとイブの楽園追放、いわゆるパラダイス・ロストのエピソードである。このあたりは日本語訳でも馴染み深く、序盤ゆえに何度も読んできたはずであるが、自ら翻訳に挑むとやはり印象が変わる。
もちろん、邪気眼である俺様が聖書の蛇を好むことは言うまでもない。わくわくしながらセリフを訳し、口調にもこだわった。「――上帝とそっくりそのままになってしまうことを、上帝はご存じなのさ。」という蛇の誘惑、これは後に上帝自身の言葉によって正しいことが明らかになる。そもそも、アダムとイヴは死んでいないし、ここで蛇はなにひとつ嘘をついていない。蛇の言葉はすべて事実である。むしろ嘘をついたのは上帝だけじゃないか? とすら思えてくるが、上帝は「『食べてはならぬ。もぎ取ってはならぬ。死に陥ることを恐れよ(共同新訳では、「死んではいけないから」)」と禁じているだけで、食べたら(直ちに)死ぬと断言したわけではない。なので、上帝の言ったことも噓とまでは言い切れない。それを踏まえてみれば、蛇が最初に「上帝は本当に語ったのかね? 『食べてはならぬぞ』という言葉を。」と尋ねたことは、実に巧みな弁舌だというほかない。
さて、ここでのイブは一般におろかな女として語られがちだ。蛇に騙されて人類がエデンを追放される元凶となった女である、と。伝統的には、だから女はおろかなのだとして女性を蔑視する根拠に用いられてきたし、一方でこれを批判する男女平等主義からは、女性蔑視のためにこのような描写を聖書がこしらえたのだと主張される。私自身、これまでなんとなくイブが蛇にそそのかされて実を食べた描写を単純に男尊女卑の反映だと受け取っていた。確かに前章でのイブはアダムの肋骨から創造された「男性の一部」であり(取之脇骨成女)、本章でもイブの罪によって女性は男性の従属者となることが上帝から宣告されるのだ(夫爲爾綱)。
しかしながら、イブが知恵の実、本文でいうところの善悪分別の実を食べた理由は、果たして世に言われるような「女のおろかしさ故に蛇に騙されたこと」なのだろうか。
まず第一に――これは前述の内容とも重複するが――イブは事実に基づいた判断しかしていない。たとえば蛇が「上帝は人間を愛しておられる。ゆえに『この実を食べてよい』と伝えるように私に命じられたのだ。」などとイブに吹き込んでいたなら、それこそ「おろかな女が蛇に騙された」と言って差し支えないかもしれない。しかし、事実がこれと異なる点は、一般に驚くほど見過ごされている。
第二に、イブは何を求めて善悪分別の実を食べたのか、という問題である。たとえば蛇がこのように誘惑していればどうか。
「ひとたびその実をお前さんが口に含めば、鼻腔を抜ける芳香はこれまで口にしたいかなる果実をも凌駕し、お前さんの舌に触れた瞬間、世界のあまねく美味も泥を噛むに等しく成り下がるだろうね。」
このように美食の快をもって蛇が誘惑していれば、これが事実であってもそうでなくとも、これに応じて上帝の命に背いたイブは、おろかと言って差し支えない。しかし、イブが求めたものは何であったか。蛇が提示したものは何であったか。それは善悪の分別ができること(能辨善惡)である。そしてそれは、蛇の言葉によれば、「上帝とそっくりそのままになってしまうこと(彷彿上帝)」に他ならない。イブが求めたのは単なる果実の甘美ではなく、上帝(神、天主、エホバ)と等しき能力を手に入れることだったのだ。果たしてこれをおろかであると断じることができようか?
もちろん、これをもってしてもイブをおろかしさゆえに蛇にたぶらかされたのだと論じることは可能である。上帝によって土から創造された塵に等しき身でありながら、その分際をわきまえず、創造主と並ぶ存在たらんとして野心と好奇心に身を焦がし、上帝の定めた絶対の法を犯したイブ。彼女はやはり大罪人であり、その所業はおろかしきこと甚だしいものである、と。これはこれで筋の通った議論であり、なんとなれば私はこれを一理あるとさえ思う。
しかしながら、そのように断じた時点で、もはや「女は無知でおろかでのろまで男が庇護せねばなにもできぬ。ゆえに女は男に従属せねばならぬのだ。」とし、その根拠に聖書の本章を持ち出すことはできなくなる。そのおろかしさは、天に届かんとして建てられたバベルの塔のごとく、知性の火を盗み取ったプロメテウスのごとく、真理を曲げること能わずに獄へ繋がれたガリレオのごとく語られなくてはならない。真実を知ることの災厄と引き換えに神々への従属から人間を解放したパンドラを罵るのであれば、エジプトでの奴隷時代を懐かしむ者たちと共にモーセを罵るがよい。イブは自らのおろかしさゆえに無自覚のまま蛇に騙された憐れな愚者ではない。自らの意思で自立を求めた自覚的な反逆者なのだ。
楽園追放が自由と解放の物語と解釈であることは私でさえ気づくほど自明にことであって、これは今回の翻訳を通じた調査で初めて知ったことであるが、どうやらロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニンも、神話における蛇(サタン)の役割に注目し、『神と国家』において、次のようにサタンの自由への反逆を顕彰したようである。
The Project Gutenberg eBook of God and the State, by Mikhail Aleksandrovich Bakunin
https://www.gutenberg.org/cache/epub/36568/pg36568-images.html「彼(エホバ)は、知恵の樹の実に触れることを彼らに明確に禁じた。したがって彼は、自己に対するいかなる理解も欠いた人間が、永遠の神、すなわちその創造主にして主人の前で、永遠に四つ這いの獣のままでいることを望んだのである。」
「サタン、永遠の反逆者、最初の自由思想家、そして世界の解放者。彼は、人間にその獣じみた無知と従順を恥じさせる。彼は人間を解放し、不服従を促して知恵の実を食べさせることによって、人間の額に自由と人間性の刻印を押すのである。」
しかしながら、同書をどれだけ確認しても、イブはアダムの付帯物として「アダムとイブ(Adam and Eve)」という形でしか言及されていなかった。ところが聖書の本文では、なぜ善悪分別の実を食べたのかという上帝の問いに対し、アダムが蛇について触れず、実行犯がイブであり、この状況をつくりあげたのが他ならぬ上帝であると弁明したのに対し(爾以婦賜我、與我爲偶、婦予我菓、而我食之)、イブは蛇との直接的な交渉が存在したことを認めている(蛇誘我食之耶)。これはイブこそが上帝と並ぶ存在になりたいと最初に願って罪を犯した最初の人間であることを示す、小さいが確たる差異のはずである。バクーニンのみならず、サタンの顕彰やアダムとイブの楽園追放を解放の物語とする解釈は世にあふれているが、人間における最初の反逆者がアダムではなくイブであったこと、ひいてはその役割が男性ではなく女性であった事実だけは常に無視されている。
この事実に目を向け、ふたたび検討することには、価値があるかもしれない。
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今後の予定としては、とりあえず漢訳聖書の創世記を11章のバベルの塔のエピソードまで掲載してから一旦停止。訳はもう少し先までやっているのだけど、アブラハムが登場する直前ということでキリがいいので。ここまでがキリスト教における具体的な教義以前の世界観みたいな感じ?
で、翻訳のストックはアホみたいにたくさんあるので、そちらの掲載に集中。それもあちこちに浮気はしない。漢訳聖書創世記11章の次は、すでにブログにも訳を掲載している仏教の律蔵の訳を冒頭の悟りを開いたところから最初の弟子をとる初転法輪まで。なんといっても仏教の開祖たるゴータマ・ブッダ自身の伝記ともいうべき内容である。諸宗派共通の内容であり、仏教を顧みる上で基礎中の基礎、教義や解釈の前提となる一種の土台だ。
という風に、キリスト教と仏教という現代宗教の二大巨頭における土台が漢文訳から学べるというところまで整えたところで、これまで何度もやるやる言って全然やっていない論語注疏を掲載することにする。言うてもうちのホームページは漢語圏の典籍が中心であり、俺の興味もそちらが第一なので、やはり土着の漢籍こそ本分のはずである。その中でも第一はなんといっても論語だ。最上至極宇宙第一の書である。論語注疏は一年以上かかるかもしれないけど、特別なにかない限りは浮気はしない。さっさと掲載する。なぜなら本ホームページの土台であり背骨となるべき典籍だからだ。
優先順位を決めて完遂する姿勢は、仕事のみならず趣味の場でも貫くべきである。というのも、趣味だからいい加減でいいと甘えていると、ふとした瞬間に仕事の場でも甘えが表に出てしまう。そういうことを仕事でさんざん自覚させられているため、ホームページの更新も最低限しっかりと筋を通して取り組んでいくことにする。読んでいる人も多くないホームページなんだけども。
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焚巣館 -聖経-摶土為人 土ヲ摶(コネ)テ人ト為ス
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/02tando_ijin.html更新。
前章では「上帝」とのみ表記されていた創造主であるが、今回は「耶和華」という語が登場する。日本語版共同新訳を確認すると「主なる神」とされているが、我ら邪気眼にはおなじみYHVH、ヤハウェである。本文の現代語訳では一般的な日本の音訳の中から中国語における漢字の音に近いと思われた「エホバ」をルビとして振っている。つまり、ここで初めて上帝(神、天主)が個体らしき存在で登場するのだ。さあ面白くなってきた!
さて、これまでブログや各ソーシャルメディアに先行して掲載していたものでは、耶和華等の音写の固有名詞には書き下し文で読み仮名をふってはいなかった。しかし、せっかく聖書を書き下すのだから、なにかしてみよう……ということで、当初は試しに伝統的な漢字の音読みを踏まえた読みがなを音写された語につけてみることにしたのである。
たとえば、耶蘇(イエス)の一般的な音読みは「やそ」であるが、これは「イエス」や「ジーザス」から遠い。しかし、これは私も蓋蘇文の読みを調べる際に初めて知ったのだけど、実は蘇には「ス」という音読みもある。よって、耶蘇は「やす」とも読めるのである。そして"y"は"イ"の音なので、ヤスとは「いあす」であり、かなり「イエス」に近いイメージになるわけだ。……ただ、「やす」という字面があまりにマヌケだしポートピアなので、今度は「耶」に注目してみると、こちらの音読みには「や」以外に「しや」「じや」がある。やはりy音とj音は転じやすく、その形跡は日本語にも見て取れる。「じやす」であれば、これは「ジーザス」に近く、「やす」のようなマヌケさもない。ちなみに古事記を見れば、「斯麻能佐岐耶岐(しまのさきざき)」とあるように、耶に「ざ」を当てている。つまり「ざす」と仮名を振ることもできる。
……というふうに各固有名詞にかなを振っていた。亞当(あたう)、埃田(あいでん)、比遜(ひそん)、哈腓拉(はびらつ)、其訓(ぎほん)、古實(くしつ)、希底結(ひていけつ)、亞述(あしゅつ)、百辣(はくらつ)、夏娃(げわ)、該隱(かいん)、亞伯(あばく)、挪得(のとく)、以諾(いなく)、以臘(いらふ)、米戶雅利(めほやりつ)、馬土撒利(まとさちりつ)、拉麥(らもく)、亞大(あだい)、洗拉(せいら)、雅八(やはつ)、猶八(ゆはつ)、土八該隱(どばつかいん)、拿馬(なま)、設(せつ)……挪亞(のあ)、巴別(ばべつ)、羅得(ろとく)、亞伯蘭(あばくらむ)、撒勑(さつらい)……とまあ、マイナーな音読みなどを探して(たとえば羅を「ろ」と読むのは、祭事に用いるソリが修羅と書いて「しゅろ」と読ませるものに由来するし、戶を「ほ」と読むのも限定的で、宍戸を「ししほ」と読むことを発見して採用した等。)ずいぶんといろいろ考えてはみたのだけど、なんというか、手間がやたらとかかる割にイマイチすべてをそうする意味も感じないし、すべてがしっくりくるものばかりではないし。なにより一番最初の固有名詞である『耶和華』にしっくりくる読みができない。「やわくわ」? 「ざわくわ」? 「しえおくわ」? 「しえおくわ」? 華を「は」か「わ」と読む方法はないかと検索するも、なかなか見つからず、どんどんモチベが落ちてきた。
俺がやりたかったことってこういうのだっけ? と自分で疑問に思いつつ、いろいろ検索していると芥川龍之介の『奉教人の死』にイエス・キリストが『ぜす・きりしと』と表記されていた。
そう。俺がやりたいのはこういうのだ。
で、実際に『ぜす・きりしと』が漢字の『耶蘇』の読みとして使われているかを検索してみると、明治初頭に記された『南蛮広記』に耶蘇基督を『ぜすきりしと』と読み、さらには「Euangelho(福音)」の読みを「ゑばんぜりよ」としている。そう、これこれ! 俺の求めているのはこういうのだよ!
翻って自分が辞書やらなんやらのそれっぽい読みを雑に当てはめるだけの作業で振った仮名のなんと不毛なこと。これ、たぶん歴史的な仮名の音韻をちゃんとつかんで身体化した上でやれば、面白いことになるかもしれないけど、私はその任に堪えない。
で、同時代に既に存在するよさげなものだけは拾ってそちらを用いようと思い、代表訳本や上記『南蛮広記』と近い時代の日本語版聖書ということで、『訓点聖書』という、漢訳聖書に返り点やフリガナを振ったものを発見したのでこれを参照することにした。そちらを見ると「エホバ」とか「アダム」とか、すでに割と現代にもつながる完成されたフリガナがカタカナでふられている。うーん、当初の目的からするとパッとしないけど、とりあえずこれでいいか……というわけで、書き下し文にはこの訓点聖書に基づく読みが付されている。
漢字から音を書き起こすことにも意味はあると思っていて、たとえばパレスチナの漢語「巴勒斯坦」を仮名にすると「ぱろくしたん」になる。まずもってこの字面がいいのだけど、それだけでなく「Palestine(パレスタイン)」という一般的な英語読みに近いことから、この作業によってこうした音を日本語として包摂しながら受け入れることができるようになる。先ほど述べたyとjの音韻の変化に関する考察の材料とか、マイナーな音読みや万葉仮名のこともそうなんだけど、こうやって言語を立体的に受け取るのにいい機会かな、と思っていたのに、今回はとりあえず挫折ということで。
それにしても古實が「エテオピア」で、亞述が「アツシリヤ」だなんて、全然音訳じゃない。なんなら自分が現代語訳のルビを振るにあたって主に参考にしている共同新訳の方が漢語に近く、こちらの方が意訳的である。なんかもうコンセプト全然変わっちゃっているのだけど、とりあえずこれで通しちゃう。ちなみに、すべてひらがなにしようかとも考えたけど、すでにカタカナで記されているものをそう書き換えるのはさすがにあざといと感じてカタカナにしている。「あつしりや」とか「えておぴあ」とか、確かに邪気眼としては心ときめくものがあるのだけど。
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焚巣館 -聖経-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/main.htmlひさびさのブログとホームページの更新。過去にブログにも掲載している漢訳聖書の訳をホームページに掲載。やー、すっかり操作を忘れてなかなか勝手がわかんない。今回はウォーミングアップのつもり。これから更新を増やす……はず。
漢籍翻訳は中国思想にとどまらず、初期から朝鮮の歴史書を訳し、仏典に続いて聖書まで翻訳に着手、もはや思想の大陸横断である。
現在は漢籍イスラム文書の『清真大学』の翻訳を画策中。これはネット上にデジタル入力のものがなかったのだけど、影印のPDFは存在するため、今はAIで読み込めば電子翻刻は圧倒的に手間が省けるため、これを使ってやろうかと画策中。とはいえ、それでも時間はかなりかかるため、仕事もあるからいつになるかはわからない。
さて、今回は聖書の第一である創世記の冒頭。神が6日間で天地を創造したという神話から。ここでの神は『上帝』と名付く。God(ヘブライ語ではエロヒム/אֱלֹהִים)の訳は『神』か『上帝』か、これは聖書を漢訳するにあたってプロテスタント宣教師たちが19世紀から議論を重ねた問題で、実は定まった決着がついていない。イギリス系が上帝でアメリカ系が神だとしたと聞いたこともあるけど、本当か? そんな風に国で派閥が綺麗に分かれているものだろうか、よくわからない。
ちなみに17世紀から18世紀にかけてもカソリックにおいて『天主』『上帝』『天』のいずれとするかで論争があり、これは『天主』に定まった。実は日本でもカソリックでは天主という呼称が主流であった。ところが近代に入ってからプロテスタントが流入し、これに伴って『神』の呼称が入る。一般的にはそちらが主流となり、それ以降しばらく日本のカソリックは二重状態に置かれた。以後、公式にカソリックでも『神』の語が認められたのは20世紀後半である。
私は過去に聖書の創世記をすべて読んでいる……というか聴いている。というのも、聖書には過去の豊富な著作権フリーの多言語翻訳を数多く収録したアプリが複数存在し、これらをすべて音読してくれるのだ。なので私は一時期ジョギングをしながらずっとこれを聴いていた。膨大な聖書の内容が「ながら」ですべて通読、というか、通聴? できてしまうのである。
しかし、翻訳という作業を通じて、つぶさに単語を確認することで、新たな発見が大いにあった。今回の翻訳を通じて気づいたことは、上帝(神)が自らのことを「我儕」と称していることである。これは「わなみ」と訓じ、「我」の複数形である。
【漢文】
26上帝曰、宜造人、其像象我儕、以治海魚、飛鳥、六畜、昆蟲、亦以治理乎地。【書き下し文】
26上帝 の曰 く、宜しく人を造り、其の像 は我儕 を象 り、以ちて海 の魚、飛ぶ鳥、六つの畜 、昆蟲 を治め、亦た以ちて地を治理 むるべし、と。【現代語訳】
26上帝はおっしゃられた。「人を創造し、その姿は我々を象 ろうではないか。そして海の魚、飛ぶ鳥、六畜、昆虫を統治し、同じように地を統治するがよい。」どゆこと? これまではなんとなくスルーしていたけど、翻訳をしてみるとこういう細かい用語が気になってくる。で、調べてみると実は日本語版の共同新訳でも、この部分が「我々」とされており、英語版の共同新訳やイギリスのキングジェームズ版でも「us」「our」と表記されている。
神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」創世記 1:26 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/gen.1.26.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3Then God said, “Let us make mankind in our image, in our likeness, so that they may rule over the fish in the sea and the birds in the sky, over the livestock and all the wild animals, and over all the creatures that move along the ground.”」 Genesis 1:26 NIV
https://bible.com/bible/111/gen.1.26.NIVAnd God said, Let us make man in our image, after our likeness: and let them have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air, and over the cattle, and over all the earth, and over every creeping thing that creepeth upon the earth.」 Genesis 1:26 KJV
https://bible.com/bible/1/gen.1.26.KJVこれはいったいどういうことか。ちなみに原語ではどうなっているかというと……まあ聖書の原語というのも同定が難しいのだけど、古代ヘブライ語、古代ギリシャ語、ラテン語の聖書において当該部は次のようになっているようだ。
タナハ(ユダヤ原典)
古代ヘブライ語:וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים נַעֲשֶׂה אָדָם בְּצַלְמֵנוּ כִּדְמוּתֵנוּ七十人訳版(初の翻訳聖書)
古代ギリシャ語:ἡμετέραν(hēmeteran) καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ’ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ’ ὁμοίωσινウルガーター(カソリック教会初の統一聖書)
ラテン語:Et ait: Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram……正直さっぱりなにがなんだかわからないのだけど、どうやら「我々」を意味する語が含まれているらしい。deepLにぶち込んだところ、
古代ヘブライ語:神は言われた、「われわれの像、われわれに似た者を造ろう」。
古代ギリシャ語:神は言われた。「われわれの像と似姿とをもって人を造ろう」
ラテン語:そして彼は言った、「われわれの像に、われわれに似せて、人を造ろう」。
と、それぞれ訳されたので、やはりすべて「我々」なのだろう。たぶん。
さて、こんな神の一人称が複数形という重大な、わかりやすい疑問点に過去の億兆の聖書読者が気付かぬはずがなく、複数のキリスト教系の教団が大小問わず自らこの問題に関する回答を提示している。
人間の創造 - 横浜指路教会
https://yokohamashiloh.or.jp/gen-01-5/エロヒム神様、父なる神様と母なる神様 神様の教会 世界福音宣教協会
https://japanwmscog.org/%E4%BF%A1%E4%BB%B0/%E6%AF%8D%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%A5%9E%E6%A7%98/%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%92%E3%83%A0%E7%A5%9E%E6%A7%98/神 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001729複数形の理由として挙げられるのは、①ヘブライ語における上帝(神、天主)であるエロヒムが複数形の語だから。②天使たちに呼びかけているから。③偉い人が一人称を複数形で言う文化があったから。④父、子、聖霊の三位一体説を示しているから。⑤全知全能の上帝は一にして多だから。……等の説があり、複数にまたがって解釈される、っぽい。
さて、これらの説についてはさておき、上帝の一人称が複数形であることを前提にすれば、聖書の記述に関して別の読み方もできるし、私としてはむしろこれまでなんとなく読み流していた部分でスッキリと解釈できたものもある。具体的には楽園追放における上帝の言葉、大洪水(ノアの方舟)に至る背景、バベルの塔のエピソード。まことに翻訳とは精読を10回するだけの効果があり、非常におすすめの趣味だ。お金もかからない。
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【現代語訳】
元史の冒頭をなんとなく訳してみた。うーん、この見慣れない感じの人名! チンギス・ハーンよりも十代も遡った祖先から話が始まる。一代を三十年で計算すれば三百年前のことである。土着の中原の皆さんには馴染みがないしね。
太祖法天啟運聖武皇帝、諱(いみな)は鐵木真(テムジン)、姓は奇渥溫(キャウン)氏、蒙古(モンゴル)部の人である。太祖はその十世祖の孛端義兒(ボドンチャル)の母を阿蘭果火(アランゴア)といい、脱奔咩哩犍(ドブンメリゲン)に嫁いで二人の子を生んだ。長子は博寒葛答黒(ボカンカダキ)といい、次子は博合睹撒裏直(ボカトサリジ)という。夫が死去した後のこと、阿蘭(アラン)が寡婦として生活していて、夜に帳の中に寝ていると、白い光が天窓から中に入り、金色の神人と化し、駆け寄ってきて長椅子に伏せる夢を見た。阿蘭(アラン)は驚いて目を覚まし、こうして妊娠して一人の息子を生んだ。それが孛端義兒(ボドンチャル)である。孛端義兒(ボドンチャル)の容貌は奇異であったが黙然として言葉が少なかった。そのことで家族からは愚か者だと思われていたが、阿蘭(アラン)だけはひとり人に語っていた。「この子は愚か者ではありません。後世の子孫に必ず偉大で高貴な者が現れるでしょう。」
阿蘭(アラン)が死没してから、兄たちは家の財貨を分け合ったが、彼には与えなかった。孛端義兒(ボドンチャル)は言った。
「貧賤も富貴も天命である。財貨ごとき、どれほど道の足しになるだろうか。」
ひとり青白き馬に乗り、八里屯阿懶(バルジュンアラル)の地までたどりつき、そこに住むことにしたが、食飲が得られなかった。ちょうどその時、蒼鷹(しらたか)が野獣を捕らえて食べていたので、孛端義兒(ボドンチャル)はあらなわを使って罠をしかけ、それを捕獲した。鷹はすぐに慣れ親しんだ。鷹をひじにかけて鷹狩りし、ウサギや鳥を狩って食膳を用意し、なくなることがあればすぐに次のものが現れたので、天が彼を助けているように見えた。
【漢文】
太祖法天啟運聖武皇帝、諱鐵木真、姓奇渥溫氏、蒙古部人。太祖其十世祖孛端義兒、母曰阿蘭果火、嫁脫奔咩哩犍、生二子、長曰博寒葛答黑、次曰博合睹撒裏直。既而夫亡、阿蘭寡居、夜寢帳中、夢白光自天窗中入、化為金色神人、來趨臥榻。阿蘭驚覺、遂有娠、產一子、即孛端義兒也。孛端義兒狀貌奇異、沉默寡言、家人謂之癡、獨阿蘭語人曰、此兒非癡、後世子孫必有大貴者。阿蘭沒、諸兄分家貲、不及之。孛端義兒曰、貧賤富貴、命也、貲財何足道。獨乘青白馬、至八里屯阿懶之地居焉。食飲無所得、適有蒼鷹搏野獸而食、孛端義兒以緡設機取之、鷹即馴狎、乃臂鷹、獵兔禽以為膳、或闕即繼、似有天相之。【書き下し文】
太祖法天啟運聖武皇帝、諱(いみな)は鐵木真、姓は奇渥溫氏、蒙古部の人なり。太祖は其の十世祖の孛端義兒の母は阿蘭果火と曰ひ、脫奔咩哩犍に嫁ぎて二子(ふたりご)を生む。長(をさご)は博寒葛答黑と曰ひ、次(つぎご)は博合睹撒裏直と曰ふ。既にして夫は亡(し)に、阿蘭は寡居(やもめぐらし)、夜に帳の中に寢たれば、白光の天窗自(よ)り中に入り、化けて金色の神人と為(な)り、來たり趨りて榻(こしかけ)に臥するを夢(ゆめみ)ゆ。阿蘭は驚きて覺(めざ)め、遂に娠(はら)む有り、一(ひとり)の子(むすこ)を產み、即ち孛端義兒なり。孛端義兒の狀貌(ありさま)は奇異(あた)しく、沉默(だまり)として言(ことば)を寡(すくな)し、家人(うから)は之れを癡(おろかしき)と謂(おも)ふも、獨り阿蘭のみ人に語りて曰く、此の兒は癡(おろかしき)に非じ。後の世の子孫は必ず大いに貴き者を有(あらは)せり。阿蘭は沒(し)に、諸(もろもろ)の兄は家の貲(たから)を分け、之れを及ぼさず。孛端義兒曰く、貧しきも賤しきも富あるも貴きも命(みことのり)なり。貲財(たから)何ぞ道とするに足らむ、と。獨り青白き馬に乘り、八里屯阿懶の地に至りて焉(ここ)に居(すま)へり。食飲(をし)に得る所無し。適(たまたま)蒼鷹(しらたか)の野獸(けもの)を搏(とら)へて食(は)む有り、孛端義兒は緡(さし)を以(もち)ゐて機(わな)を設けて之れを取り、鷹は即ち馴狎(な)れ、乃ち鷹を臂(ひぢ)にし、兔と禽(とり)を獵(か)りて以ちて膳(かしは)と為し、闕くること或らば即ち繼ぎ、天の之れを相(たす)くる有るが似(ごと)し。「貧賤も富貴も天命である(貧賤富貴命也)」なんていう中国流のレトリックはどこまで蒙古当地の伝説に基づいているのか気になる。