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愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。
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焚巣館 -神滅論-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/shinmetsuron/main.html
本日の更新。一年近くブランクが空いてしまった。本文も1年近く前には既に翻訳していたものである。なぜこんなことになってしまったかと言えば、ことのはじめはパソコンの故障である。これ自体は大したことではなかったものの、念のためファイルを新たなパソコンに移すことにし、そこに私自身の引っ越しが重なってしまい、パソコンのセッティングが後回しになった結果、ホームページ更新や環境設定もおっくうになってずるずると延びて今に至るわけである。
さて、ひさびさの更新なので確認しておくと、私が漢籍を訳し始めたきっかけの一つはもともと未翻訳の漢籍を読むためであった。そしてホームページの立ち上げに際しても、これを現代語訳未出版の漢籍を読める画期的なものにしてやろうと野心を燃やしており、だからこそ王符の潜夫論を当初は目玉にしようとしていたのである。
しかし、これが遅々として進まず、大越史記全書も遊心安楽道も論語注疏も同じく更新が停滞している。既に全訳してホームページに掲載しているといえば三国史記であるが、これは未出版の漢籍ではない。そんなこんなで5年の歳月を経てしまった。こんなはずではなかった……と頭を抱えるばかりである。
ところが、なんと今回更新した『神滅論』は現代日本語全訳未出版! ついにまとまった漢籍の全訳を掲載することができたわけである。いやー、よかったよかった。カムバック更新第一回にふさわしいと言えよう。
ちなみに注記や余釈などをまだ書いていないけど、そんなの書いていたらまたいつまでたっても更新できないので、もうさっさと翻訳だけ更新することにした。書きたいことはいっぱいあるので、余釈はおそらく追記すると思う。
ところで、この神滅論って巷では無神論の書だと喧伝されているのだけど、読んでみたら『神』はどう読んでも『精神』のことで、死後の精神の消滅を論じているだけ、つまり一般にいう無神論でもなんでもなくてびっくりした。こういう粗雑な中国思想紹介みたいなのが一般に広まるケース本当に多い……。
内容は儒者による仏教批判。やはりバチバチの思想バトルは面白い。
史記 項羽本紀鴻門之会の後半である。いやー、なんというか……面白いね! 単純に話が面白い。翻訳はできるだけ軽ぅーく読めるようにしたつもり。口調でキャラ付したりしてラノベみたいな感じにしてみたりして……たのしい!
鴻門之会 後半
クソガキには付き合っておれんわ!(豎子不足與謀)
前回
【現代語訳】
沛公が出発してから項王は都尉の陳平を使わせて沛公を呼び出した。沛公はいう。
「あいさつもせずに、いま出てきたわけだけどさ、こんなことしちゃっていいのかね?」
樊噲はいう。
「でかいことやるんなら細かいことは気にするな。大げさな儀礼の時に細かい譲り合いの言葉なんていちいち口にしないだろうが。言ってみれば今のあいつらは包丁とまな板、俺らは魚や肉みたいなもんだ。どんなあいさつするつもりだよ!」
こうしてそのまま逃げ去った。
ここで張良に謝罪のため待機するよう言いつけると張良が尋ねた。
「大王よ、いらっしゃい。何かおみやげは持たせてくれるんですよね?」
「俺は手持ちの白い宝玉を項王に献上し、ヒスイの柄杓も亜父にあげるつもりだったんだけどさ……あいつらがちょうど怒っちゃったもんだから献上しないことにしていたんだ。あんたさ、俺のためにこれらを献上しちゃくれないかね?」
張良は言った。
「ええ、かしこまりました。」
まさにこの時、項王の軍は鴻門の下にあり、沛公の軍は霸の上にあった。互いに四十里ほど離れており、沛公はそこで車騎を放置して抜け出し、ひとりだけ馬に乗って、同行する樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人は剣と盾を持って徒歩で走った。酈山の下から芷陽を道にしてこっそりと進んだのである。
沛公は張良に言った。
「この道なら我が軍にたどりつくまで二十里もかからんよ。俺が軍中まで着いたところを見計らい、お前さんはそこで中に入るといい。」
沛公が去ってからこっそりと軍中までたどり着いたところで、張良が謝罪に入って言った。
「沛公はべへれけに酔っぱらい、ごあいさつできませんでした。謹んで使臣の張良が白い宝玉を奉納し、もう一度大王を拝して足下にお供えさせていただきたい。ヒスイの柄杓も再び大将軍を拝し、足下にお供えさせていただきたい。」
項王はいう。
「沛公はどこにいる。」
張良はいう。
「大王が彼のあやまちを叱責するつもりだと聞いてひとり抜け出し、とっくに軍中にいますよ。」
そこで宝玉を受け取った項王は、それを座敷の上に置いたが、ヒスイの柄杓を受け取った亜父はそれを地面に置き、抜いた剣を叩きつけてそれを真っ二つにした。
「クソガキが……付き合っておれんわ! 項王の天下を奪うのは間違いなく沛公だ。われらの仲間は今に奴らの捕虜となろう。」
沛公は軍にたどりついてから立ち上がり曹無傷を誅殺した。
【漢文】
沛公已出、項王使都尉陳平召沛公。沛公曰、今者出、未辭也、為之柰何。樊噲曰、大行不顧細謹、大禮不辭小讓。如今人方為刀俎、我為魚肉、何辭為。於是遂去。乃令張良留謝。良問曰、大王來何操。曰、我持白璧一雙、欲獻項王、玉斗一雙、欲與亞父、會其怒、不敢獻。公為我獻之張良曰、謹諾。當是時、項王軍在鴻門下、沛公軍在霸上、相去四十里。沛公則置車騎、脫身獨騎、與樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持劍盾步走、從酈山下、道芷陽閒行。沛公謂張良曰、從此道至吾軍、不過二十里耳。度我至軍中、公乃入。沛公已去、閒至軍中、張良入謝、曰、沛公不勝桮杓、不能辭。謹使臣良奉白璧一雙、再拜獻大王足下。玉斗一雙、再拜奉大將軍足下。項王曰、沛公安在。良曰、聞大王有意督過之、脫身獨去、已至軍矣。項王則受璧、置之坐上。亞父受玉斗、置之地、拔劍撞而破之、曰、唉、豎子不足與謀。奪項王天下者、必沛公也、吾屬今為之虜矣。沛公至軍、立誅殺曹無傷。
【書き下し文】
沛公は已に出づ、項王は都尉の陳平を使はせて沛公を召さしむ。沛公曰く、今の者(こと)出づるも、未だ辭(ことば)せざるなり。之れを為すは柰何(いか)に、と。樊噲曰く、大いに行かば細かき謹しみを顧みず、大いなる禮は小さな讓るを辭(ことば)せず、と。如今(いまごろ)は人の方(まさ)に刀俎を為し、我は魚肉と為らむとす。何ぞ辭(ことば)為(あ)らむ、と。是に於いて遂に去る。乃ち張良に令(いひつけ)して留まらせしめて謝らせしめむとす。良は問ひて曰く、大王(おほきみ)よ、來たれ。何をか操(も)たむ、と。曰く、我は白璧の一雙を持ち、項王に獻(たてまつ)らむと欲(おも)ひ、玉斗の一雙、亞父に與(あた)へむと欲(おも)ふも、其の怒りに會(あ)ひ、敢へて獻(たてまつ)るをせず。公よ、我が為に之れを獻(たてまつ)るべし、と。張良曰く、謹みて諾(う)けむ、と。當に是の時、項王の軍は鴻門の下に在り、沛公の軍は霸の上に在り、相ひ去ること四十里。沛公は則ち車騎を置き、身を脫ぎて獨り騎(の)り、樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人と與に劍盾を持ちて步(かち)にして走り、酈山の下(ふもと)從(よ)り、芷陽に道して閒(ひそ)かに行かむ。沛公は張良に謂ひて曰く、此の道從(よ)り吾が軍に至るは、二十里を過ぎざる耳(のみ)。我が軍の中に至るを度(はか)り、公は乃ち入るべし、と。沛公は已に去り、閒(ひそか)に軍の中に至らば、張良は謝に入りて曰く、沛公は桮杓(べへれけ)に勝へず、辭(ことば)すること能はず。謹みて使臣の良は白璧の一雙を奉り、再び拜みて大王(おほきみ)の足下に獻(たてまつ)らむ。玉斗の一雙は、再び拜みて大將軍の足下に奉(たてまつ)らむ、と。項王曰く、沛公は安ぞ在らむ、と。良曰く、大王(おほきみ)に之れを過ちを督(とが)めむとする意(こころ)を有(も)つと聞き、身を脫(いで)て獨り去り、已に軍に至らむ、と。項王は則ち璧を受け、之れを坐の上に置くも、亞父は玉斗を受け、之れを地に置き、劍を拔きて撞(う)ち、而りて之れを破れり。曰く、唉(ああ)、豎子(こわらは)は與に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ずや沛公なり。吾が屬(ともがら)は今に之の虜(とりこ)と為らむ、と。沛公は軍に至り、立ちて曹無傷を誅殺(ころ)せり。
あくまで翻訳なので本文に沿った内容である。ただ、「でかいことやるんなら細かいことは気にするな。大げさな儀礼の時に細かい譲り合いの言葉なんていちいち口にしないだろうが。」は本文だと「大行不顧細謹、大禮不辭小讓」というしっかりした対句の格言であり、それを前提にして訳せば、「大いなる行いは微細な謹みを顧みず、大いなる礼は小さな謙譲をゆずらない」といったところか。おそらく本来は成語の引用か何かで、さもなくば即興で斯様な格言をつくったことになるわけであるが、いずれにせよ今回の訳のような荒っぽい言い回しはそぐわないかもしれない。樊噲は劉邦の弟分の荒くれ者として描かれるし、実際に豪快な描写もあるのだが、一方で前回の項羽への諫言なども含めて史記における彼の描写はやけにインテリゲンチャな雰囲気をまとっていることがままある。今回の訳では樊噲のキャラ立てと劉邦との関係をコメディ調に描くため、さらに張良との差異化にのため、そういった点を捨象しており、このような訳となった。その点は注記しておこう。
史記 項羽本紀
鴻門之会
大ピンチ!
人物紹介
項羽……楚という国で代々将軍をしていた武人の出自。当時の王朝であった秦の崩壊に乗じて楚の復興を唱えて王族の子孫から王に立てたが、のちに彼を追放して自らが楚王を名乗り乱世で覇を唱える。若き群雄。
劉邦……もともと楚の沛という地方でゴロツキをしていたが不思議と人望があり、岡っ引きの大将みたいな役目についた。その後は秦に反旗を翻して項羽と共に楚の懐王に仕えるが……。
懐王……項羽に立てられた楚王。後に項羽に追放されて王位を奪われた。
樊噲……犬の屠殺業で生計を立てていた肉屋。劉邦の不良仲間で弟分。
張良……韓という国の貴族の出自であったが若き日に秦の統一によって祖国を失う。復讐のために秦の始皇帝を暗殺しようと企てたが失敗して逃亡。以後はやくざ者になり、さまざまな主君を転々とするが、劉邦と知り合ってからは彼を英傑と認めて忠誠を誓うようになる。
項荘……項羽の従弟であり忠実な臣下。
項伯……項羽の叔父であるが張良に恩があり劉邦に味方する。
范増……項羽に乞われて仕える老軍師。項羽から亜父(父親代わり)と呼ばれて尊ばれるが必ずしも反りはよくない。【現代語訳】
日の出とともに沛公(劉邦)は百騎あまりを従えて来た。項王(項羽)にお目通りしようと鴻門までたどり着くと、謝罪した。
「わたくしめは将軍(項羽)と力を合わせて秦を攻めました。将軍が河北で戦い、わたくしめは河南で戦い、このようにして自ら意図することなく先に関に入って秦を破ることになってしまい、将軍とまたしてもここでお目通りすることができたところなのです。今さっき、つまらぬ者からの言葉によって、将軍とわたくしめを仲たがいさせられようとしていましたが。」
項王はいう。
「ここで沛公の左司馬の曹無傷がそのように言ったのだ。そうでなければ、俺がなぜここに来ようか。」
項王はその日のうち、そのような事情から沛公を留めて一緒に飲むことにした。項王と項伯が東に向いて座り、亜父が南に向いて座った。亜父とは范増である。沛公は北に向いて座り、張良が西に向いて侍した。范増はしきりに項王へ目くばせし、腰に巻きつけて玉珪をかかげることで、そのようにサインを三度もおくったが、項王は黙ったまま応じなかった。范増が立ち上がって外に出、項荘を呼び出して言った。
「君王は残忍を嫌うお人柄だ。お前は中に入ってから前に出て、長寿の祈りを口にせよ。長寿の祈りを終えてから剣舞をしたいと提案し、これで沛公が座っているところを擊ち、やつを殺してやれ。さもなくば、お前の仲間はみながこれから捕虜にされてしまうぞ。」
項荘は入ってから長寿の祈りを口にした。長寿の祈りが終わってからいう。
「君王は沛公とお飲みであるが、軍中には楽しみとなるものがない。どうか剣舞をさせていただきたい。」
項王が「いいぞ」と言うと、項荘が剣を抜いて立ち上がり、舞い始めてみると、項伯も同じく剣を抜いて立ち上がり、舞い始め、常に身をもって沛公を翼のごとくかばった。項荘は撃つことができなかった。そこで張良は軍門までたどりついて樊噲と会った。樊噲はいう。
「今日のことはどうだ?」
張良はいう。
「大ピンチです。今さっき項荘が剣を抜いて舞い始めましたが、その意(こころ)は常に沛公にあります。」
樊噲はいう。
「そりゃ困った! 拙者も中に入るぞ。あいつと生死を共にするんだ。」
樊噲はすぐさま剣を腰に巻き、盾を手にして軍門に入ろうとしたが、戟を交差させた衛士が止め、内には入れようとしなかった。樊噲はその盾を構え、そして叩きつけると、衛士が地に倒れた。樊噲はこうして入ることになったのだ。カーテンを開いて西に向って立ち、目を釣りあげながら項王を視、頭髪は上を指していた。目じりはことごとくが裂けるかのようである。
項王は剣に手をかけながら膝を付けて言った。
「客人よ、なにをするつもりだ。」
張良はいう。
「沛公の参乗の樊噲という者です。」
項王はいう。
「ずいぶんと立派な士人ではないか。あいつに盃と酒をくれてやれ。」
こうして盃と酒をよこされると、樊噲は拝礼して謝罪し、立ち上がってそのままこれを飲み干した。
項王はいう。
「あいつに豚の肩肉をくれてやれ。」
こうして一頭分の豚の肩肉が与えられた。樊噲は自身の盾で地をおおい、豚の肩肉を上に置いて剣を抜くと、切り刻んでそれを食べた。
項王はいう。
「立派な士人よ、まだまだ飲むことはできるか?」
樊噲はいう。
「拙者は死んでも逃げるつもりはござらぬ。盃の酒なんぞ語るまでもない。さて、秦王は虎狼の心をもち、数えきれないほどの人を殺し、人への刑罰も執行しきれないのではないかと思われるほどのものだったから、天下の誰もがやつに叛いたのだ。懐王は諸将と"先に秦を破って咸陽に入った者がそこの王とする"と約束された。今回、沛公が先に秦を破って咸陽に入ってからというもの、一毛たりとも自分のものにしようと近づけることがなかった。宮室を封鎖して軍を霸の上に返したのは、大王の到来を待っていたからだ。つまり将を派遣して関を守らせたのは、他の盗賊の出入りや非常時に備えてのことである。労苦と共に斯様な高らかとした功績を立てたのに、まだ諸侯に封じられるとの恩賞も与えられていない。それどころか下らぬ噂を聞き入れ、功績のある者を誅殺しようとしている。これは亡国たる秦の続きでしかあるまい。失礼ながら大王の為を思えばこそ賛同はできませぬ。」
項王は同意しようとしたわけではないが、口を開いた。
「座れ。」
樊噲は張良の傍に座った。座ってからすぐに沛公はトイレに行く様子で立ち上がり、そこで樊噲を呼び出して外に出た。
【漢文】
甚急
沛公旦日從百餘騎來見項王、至鴻門、謝曰、臣與將軍戮力而攻秦、將軍戰河北、臣戰河南、然不自意能先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有郤。項王曰、此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。項王即日因留沛公與飲。項王、項伯東嚮坐。亞父南嚮坐。亞父者、范增也。沛公北嚮坐、張良西向侍。范增數目項王、舉所佩玉珪以示之者三、項王默然不應。范增起、出召項莊、謂曰、君王為人不忍、若入前為壽、壽畢、請以劍舞、因擊沛公於坐、殺之。不者、若屬皆且為所虜。莊則入為壽、壽畢、曰、君王與沛公飲、軍中無以為樂、請以劍舞。項王曰、諾。項莊拔劍起舞、項伯亦拔劍起舞、常以身翼蔽沛公、莊不得擊。於是張良至軍門、見樊噲。樊噲曰、今日之事何如。良曰、甚急。今者項莊拔劍舞、其意常在沛公也。噲曰、此迫矣、臣請入、與之同命。噲即帶劍擁盾入軍門。交戟之衛士欲止不內、樊噲側其盾以撞、衛士仆地、噲遂入、披帷西向立、瞋目視項王、頭髪上指、目眥盡裂。項王按劍而跽曰、客何為者。張良曰、沛公之參乘樊噲者也。項王曰、壯士、賜之巵酒。則與斗巵酒。噲拜謝、起、立而飲之。項王曰、賜之彘肩。則與一生彘肩。樊噲覆其盾於地、加彘肩上、拔劍切而㗖之。項王曰、壯士、能復飲乎。樊噲曰、臣死且不避、巵酒安足辭。夫秦王有虎狼之心、殺人如不能舉、刑人如恐不勝、天下皆叛之。懷王與諸將約曰、先破秦入咸陽者王之。今沛公先破秦入咸陽、豪毛不敢有所近、封閉宮室、還軍霸上、以待大王來。故遣將守關者、備他盜出入與非常也。勞苦而功高如此、未有封侯之賞、而聽細說、欲誅有功之人。此亡秦之續耳、竊為大王不取也。項王未有以應、曰、坐。樊噲從良坐。坐須臾、沛公起如廁、因招樊噲出。
【書き下し文】
甚急
甚ダ急ナリ沛公は旦日(あけがた)、百餘(ももあまり)の騎(うまいくさ)を從へて來たり、項王に見えむとして鴻門に至る。謝りて曰く、臣(やつかれ)は將軍(いくさのきみ)と與に力を戮はせて秦を攻む。將軍(いくさかしら)は河北に戰ひ、臣(やつかれ)は河南に戰ひ、然らば自ら意(こころ)するにあらずして能く先に關に入りて秦を破り、復た將軍と此に於いて見えむを得。今者(いまごろ)に小人の言(ことば)有り、將軍(いくさがしら)と臣(やつかれ)を令(し)て郤(なかたがひ)を有らしめむとす、と。項王曰く、此れ沛公の左司馬の曹無傷、之れを言ふ。然らざれば、籍は何の以ちて此に至らむ、と。項王は即日(そのひ)に因りて沛公を留めて與に飲む。項王、項伯は東に嚮(む)きて坐る。亞父は南に嚮(む)きて坐る。亞父なる者、范增なり。沛公は北に嚮(む)きて坐り、張良は西に向きて侍る。范增は數(しばしば)項王を目にし、佩かるる所の玉珪を舉げ、以ちて之れを示す者(こと)三(みたび)、項王は默然(だまり)として應へず。范增は起き、出でて項莊を召し、謂ひて曰く、君王(きみ)の人と為(な)りや忍びず、若(なむぢ)よ、入りて前(すす)みて壽(ことぶき)を為せ。壽(ことぶき)の畢ゆれば、劍を以ちて舞はむことを請ひ、因りて沛公を坐に擊ち、之れを殺すべし。不者(しからずば)、若(なむぢ)の屬(ともがら)は皆が且(まさ)に虜(とら)はるる所と為らむ、と。莊は則ち入りて壽(ことぶき)を為し、壽(ことぶき)の畢はらば、曰く、君王(きみ)は沛公と與に飲むも、軍の中に以ちて樂と為ること無し。請ふ、劍を以ちて舞はむことを、と。項王曰く、諾(よし)、と。項莊は劍を拔きて起(た)ちて舞はば、項伯も亦た劍を拔きて起(た)ちて舞ひ、常に身を以ちて沛公を翼のごとく蔽(かく)し、莊は擊つを得ず。是に於いて張良は軍門に至りて樊噲と見ゆ。樊噲曰く、今日の事は何如(いか)に。良曰く、甚だ急(あやうき)なり。今者(いまごろ)項莊は劍を拔きて舞ひ、其の意(こころ)は常に沛公に在るなり。噲曰く、此れ迫(こま)れり。臣(やつかれ)は入りて之れと與に命を同じくせむことを請ふ。噲は即ち劍を帶びて盾を擁(も)ち、軍門に入る。交戟の衛士は止めて內(い)れざらむと欲(おも)はば、樊噲は其の盾を側(かま)へて以ちて撞(お)し、衛士は地に仆れ、噲は遂に入る。帷を披(ひら)きて西に向かひ立ち、目を瞋(いか)らせて項王を視、頭の髪は上に指(む)き、目眥(めじり)は盡く裂く。項王は劍を按(な)でて跽(ひざまづ)きて曰く、客よ、何の為す者ぞ、と。張良曰く、沛公の參乘の樊噲なる者なり、と。項王曰く、壯士(ますらを)よ、之れに巵酒を賜らむ、と。則ち斗巵の酒を與ふ。噲は拜みて謝り、起ち、立ちて之れを飲む。項王曰く、之れに彘の肩を賜らむ、と。則ち一生の彘の肩を與ふ。樊噲は其の盾を地に覆ひ、彘の肩を上に加へ、劍を拔きて切り、而りて之れを㗖(く)らふ。項王曰く、壯士(ますらを)よ、復た飲むに能へるか、と。樊噲曰く、臣(やつかれ)は死にても且に避(さ)けざらむとす。巵の酒、安ぞ辭(ことは)るに足らむ。夫れ秦王に虎狼の心有り、人を殺すこと舉ぐること能はざるが如し、人を刑(しをき)すること勝へざるを恐るるが如し、天下は皆が之れに叛く。懷王は諸將(もろもろのいくさかしら)と與に約(うけひ)して曰く、先に秦を破りて咸陽に入りし者、之に王(きみ)たり、と。今や沛公は先に秦を破りて咸陽に入り、豪毛(わづか)たりとも敢へて近づけらるる所有るにあらず、宮室(みや)を封閉(とざ)し、軍を霸の上に還し、以ちて大王(おほきみ)の來たるを待てり。故に將(いくさかしら)を遣はして關を守らしむ者(こと)、他の盜(あた)の出入りと常に非ざるに備ふればなり。勞苦(いたつ)きて功(いさを)は高きこと此の如くするも、未だ封侯の賞(たまもの)有らず、而りて細(つまらぬ)說(うはさ)を聽かば、功(いさを)を有つが人を誅(ころ)さむと欲せり、と。此れ亡き秦の續きなる耳(のみ)、竊かに大王の為にも取らざるなり、と。項王は未だ以ちて應ふること有らざるも、曰く、坐れ、と。樊噲は良に從ひて坐る。坐ること須臾(わづか)にして、沛公は起つこと廁するが如し、因りて樊噲を招きて出づ。
というわけで、史記項羽本紀の鴻門之会を訳してみた。このエピソードに登場する「豎子不足與謀(豎子、與ニ謀ルニ足ラズ)」という有名なフレーズに「クソガキには付き合っておれん」という訳が浮かんだことから遡及的に全文を訳してみたくなったからである。このフレーズが登場するのは次回。
史記なんて何度も訳されているし、特に鴻門之会は中学だか高校だかの教科書で頻出らしく、謎に翻訳がネット上にもゴロゴロ転がっていたので、あらためて私から単純な逐語訳することもないかということで、「甚急」を表題にある通り「大ピンチ」と訳していたりとか、そんな感じで気ままに訳している。
単純に訳していておもしろかった。史記が人気である所以がわかる。このあたりは話が面白すぎるから逆に事実なのかはむしろ怪しく感じてしまうが。
䷣地火明夷
明夷、苦しくもあるが正しくあればうまくゆく。彖傳
日月が地中に入ることが明夷である。内面は文化的で賢明でも外面が柔和で素直なら大いなる災難を被る。文王がそうであった。『苦しくもあるが正しくあればうまくゆく』とは、その賢明さを韜晦したからだ。内面に災難はある。それでも自らの目的を正しく持つがよい。箕子がそうであった。象傳
「日月が地中に入ることが明夷である。」とは、君子が衆目に臨むにあたって韜晦することだ。それが「明」である。初九、日月が傷つき、飛びゆく鳥はその翼を垂らす。君子はどこまでもゆく。三日も食事をせずに。去る先があれば、主君からの言葉がある。
象傳
「君子がどこまでもゆく」ことの義は、食事をしないことである。六二、日月が傷つき、左股も傷つけられるが、そこで馬の壮健なものを助け出す。吉。
象傳
六二が吉なのは、素直に規則に則るからである。九三、日月が傷つき、南に狩りへゆく。あなたは大首を獲得する。急ぐな。正しくあれ。
象傳
南に狩りへゆく目的は、大いに得ようとしてのことである。六四、左腹に入る。傷ついた日月の心を獲、門の庭から出る。
象傳
「左腹に入る」とは、心意を獲ることだ。六五、箕子の傷ついた日月。正しい行いはうまくゆく。
象傳
箕子の正しさとは、明哲を終息させないことだ。上六、明なき韜晦。最初は天に登るが、最後には地に入る。
象傳
『最初は天に登る』のは四方の国を照らすことであり、『最後には地に入る』のは規則を失うことである。【漢文】
䷣地火明夷
明夷、利艱貞。彖傳
明入地中、明夷。內文明而外柔順、以蒙大難、文王以之。利艱貞、晦其明也、內難而能正其志、箕子以之。象傳
明入地中、明夷、君子以蒞眾、用晦而明。初九、明夷于飛、垂其翼。君子于行、三日不食、有攸往、主人有言。
象傳
君子于行、義不食也。六二、明夷、夷于左股、用拯馬壯、吉。
象傳
六二之吉、順以則也。九三、明夷于南狩、得其大首、不可疾貞。
象傳
南狩之志、乃大得也。六四、入于左腹、獲明夷之心、出于門庭。
象傳
入于左腹、獲心意也。六五、箕子之明夷、利貞。
象傳
箕子之貞、明不可息也。上六、不明晦、初登于天、後入于地。
象傳
初登于天、照四國也。後入于地、失則也。【書き下し文】
䷣地火明夷
明(ひつき)の夷(そこなひ)、艱(くる)しくも貞(ただ)しきに利(よろ)し。彖傳
明(ひつき)の地(つち)の中(うち)に入りたるは、明(ひつき)の夷(そこなひ)なり。內は文明にして外は柔順(すなほ)、以ちて大いなる難(わざはひ)を蒙(かうむ)るは、文王之れを以ちてせり。艱(くる)しくも貞(ただ)しきに利(よろ)しきは、其の明(あきらか)なるを晦(かく)さばなり。內に難(わざはひ)あり、而(しか)れども能く其の志を正すは、箕子之れを以ちてせり。象傳
明(ひつき)の地(つち)の中(うち)に入りたるは、明(ひつき)の夷(そこなひ)なるは、君子の以ちて眾(もろひと)に蒞(のぞ)むに、晦(かく)すを用ちてさば、而(しか)るは明(さかしき)なり。初九、明(ひつき)は夷(やぶ)れ、于(ゆ)く飛(とり)は其の翼を垂る。君子は于(ゆ)き行(ゆ)きて三日食はず、往(ゆ)く攸(ところ)有らば、主人(あるぢ)に言(ことば)有り。
象傳
君子の于(ゆ)き行(ゆ)くが義は食はざるなり。六二、明(ひつき)は夷(やぶ)れ、左股を夷(そこな)ふも、用ちて馬の壯(たけだけ)しきを拯(たす)く。吉。
象傳
六二の吉なるは、順(すなほ)にして以ちて則(したが)へばなり。九三、明(ひつき)は夷(やぶ)れ、于(ゆ)きて南に狩る。其の大いなる首(かしら)を得。疾(はや)る可からずして貞(ただ)し。
象傳
南に狩るの志は、乃ち大いに得たらむとすればなり。六四、左腹に入り、明(ひつき)の夷(やぶるる)の心を獲、門の庭より出づ。
象傳
左腹に入るは、心意(こころ)を獲るなり。六五、箕子の明(さかしら)の夷(そこな)ひ、貞(ただ)しきに利(よろ)し。
象傳
箕子の貞(ただ)しきは、明(さかしき)の息(やす)む可からざればなり。上六、明(さかしき)にあらずして晦(くら)し、初めは天に登り、後に地(つち)に入る。
象傳
初めの天に登るは、四國(よものくに)を照らさばなり。後に地に入るは、則(のり)を失へばなり。
ここでの明とは日と月であり、同時に賢明さである。日月が沈む暗黒の時代には下手に賢明さを露わにすることは危険であり、だからさっさと隠してしまった方がよい、という内容。推奨されるのはキチガイのふりである。
キチガイのふりは伝統的に中国で推奨されている。書いててなんつー話だと思うけど、文中で紹介される箕子は、論語でも「殷に三仁あり」と、暴君に支配されて滅びゆく殷王朝の中にあってそれに抗った三人の賢者のひとりとして顕彰されている。キチガイのふりは賢者のふるまいなのだ。また、荘子にも楚国の狂人が孔子に対して狂気の世界で正気のままであることを嘲笑し、「迷陽」を推奨するエピソードがある。「迷」は物事がよくわかっていない状態、要はアホ、マヌケのことであり、ここでの「陽」は表層、表向き、転じて偽ってなにかの"ふりをする"の意、よって「表向きだけアホなふりをする」ように推しているのだ。
狂人を真理の体現者とする考えは他の地域でも見られる。キリスト教における東方教会、いわゆる正教会では最も聖なるものは愚かな姿で現れるとして、愚かなしぐさで物乞いをしながら生きる信仰者を時にユロージヴイと呼んで尊んだ。これは漢語にて聖痴愚とも佯狂者とも訳されるが、「佯」とは「ふり」であり「狂」は言うまでもなくキチガイ、つまり佯狂者とはキチガイのふりをする者である。
この卦の面白いところは、前文で周文王よりも箕子の方が優れているように読める点だろうか。周文王は伝統儒教における最大級の聖人のひとりとされる。一般に周文王とは、殷王朝の支配下にあった周という国を大いに発展させ、自らの大徳で民衆から大いに慕われ、対する当時の殷は紂王という暴君の代であったことから、いつ周が殷に代わって政権を獲得してもおかしくないほど文王が実権を得ていたにもかかわらず、自らが殷に取って代わることはなく臣下として仕え続けたことが美談とされている。彼の次男の武王が殷を討伐して革命を成し遂げたことで、彼は死後に顕彰されたが、生前には紂王に長男を殺され、失意の中で死んだのであった。対する箕子は文王と同時代を生き、殷の暴君紂王の叔父であったが、紂王の贅沢が行き過ぎることを早くから見抜いてキチガイのふりをし、首都からはるか遠い朝鮮にまで逃げ延びたことで、むしろ革命後も生きながらえてその地の領主として君臨することができた。確かに冒頭で紹介される両者は、自らの賢明さを表に出した者と裏に隠した者とで対照的で、明哲保身という意味では箕子の方が賢明であったと評価することはできよう。劉邦に仕えた儒者のうち、実直な酈食其は死に、表裏比興の叔孫通は生き延びた。また、周王朝は始皇帝以前に亡びたが、箕子朝鮮は漢の勃興後まで残った。
ところで『明夷』という語を冠するものとしては、清初に記された儒書の明夷待訪録が有名。元来の王権は民衆から押し付けられる町内会長のような"貧乏くじ"な役割であったことを論じていたりとか、あるいは学生の選挙によって学長が選任される学校自治の主張など、これは清末に革命の書として尊ばれ、中国近代化の一翼を担った。それだけでなく他にも貨幣論などのさまざまな論考が封入されていてとてもよい。これは普通に面白いのでオススメ。
【現代語訳】泰、小なる過去が大いなる未来となる。吉。うまくゆく。
『小なる過去が大なる未来となる。吉。うまくゆく。』とは、つまりここで天と地が交わり、そして万物が通行するということだ。上下が交わることで、それらの目指すものが一致する。内側が陽であり外側が陰、内側が健やかであり外側が従順、内側が君子であり外側が小人であるから、君子の道がいつまでも続き、小人の道が消失する。
天と地が交わることで泰平となり、その後は財を用いて天地の道を完成させる。天地の宜を輔弼するのは左右の民である。
初九。茅を抜いて食べようとすると、それらの根の繋がったものが一度に抜ける。遠征に吉。
「茅を抜く」「遠征に吉」なのは、目指すものが外部にあるからだ。
九二。荒廃を覆い尽くそうではないか。はだしで黄河を渡るようにして。遙かなる地に思い残すものはなく、朋友も失われる。中行に至ることができたのだ。
荒廃を覆い尽くし、中行に至ることができれば、栄光は大いなるものとなるのだ。
九三。崩落しない平和もないが、去るものに帰らぬものもない。苦しむことになるが正しくあらば咎はない。心配するな。あなたにまごころがあれば、食べることに福もあろう。
「去るものに帰らぬものはない」とは、天地の終焉である。
六四。風の中を羽のように軽薄に舞う。裕福になるわけではないが、あなたには隣人がいる。厳格さを捨て、まごころを持つがよい。
「羽のように軽薄に風に舞う。裕福になるわけではない。」とは、皆が実りを失うからだ。「厳格さを捨て、まごころを持つ」とは、心の底からの願いである。
六五。帝乙が妹を嫁がせることで天の恩寵に社会があずかる。元吉。
「天の恩寵に社会があずかる。元吉。」とは、中にあって心のままに行くからだ。
上六。「建てた城は堀の中に埋め戻せ」「軍事を用いてはならぬ」村落から命を告げる。正しくはあるが、しみったれている。
「建てた城は堀の中に埋め戻せ」とは、その命が乱れているからだ。
【書き下し文】
泰 、小 かに往きて大 いに來たれり。吉 しきにして亨 れり。
泰 、小 かに往きて大 いに來たれり。吉 しきにして亨 るは、則ち是に天地 は交はり、而りて萬物 は通 ふなり。上下 は交はり、而りて其の志は同じきなり。內に陽 にして外に陰 、內に健やかにして外に順ふ、內は君子 にして外は小人 、君子 の道は長く、小人 の道は消ゆるなり。
天地 は交はり泰 らぎ、后に財 を以ちて天地 の道を成し、天地 の宜 しきを輔相 くるに左右 の民を以ちてせむ。
初九 。茅 を拔きて茹 ふに、其の彙 を以ちてす。征 くに吉 し。
茅 を拔きて征 かば吉 しきは、志 の外に在ればなり。
九二 。荒 を包むに馮河 を用ちてす。遐 かの遺 りはあらず、朋 は亡び、中 の行 に尚 たるを得たり。
荒 を包み、中 の行 に尚 たるを得たりて、以ちて光 は大 いなるなり。
九三 。平 にして陂 かざる无く、往 きて復 らざる无し。艱 しみて貞 しきに咎 无し。恤 ふ勿れ。其れ孚 に食 に于いて福 有り。
往 きて復 らざる无きは、天地 の際 なり。
六四 。翩翩 として富 まず、以ちて其の鄰 あり。戒 めずして以ちて孚 あり。
翩翩 として富 まざるは、皆が實 を失へばなり。戒 めずして以ちて孚 あるは、中心 の願 なり。六五。
帝乙 は妹 を歸 がせしめ、以ちて祉 あり、元 に吉 し。以ちて
祉 あり、元 に吉 しなるは、中 にして以ちて愿 を行 へばなり。上六。
城 は隍 に復 るべし。師 を用 ふ勿れ。邑 自 り命 を告 ぐ。貞 しくも吝 あり。
城 の隍 に復 るは、其の命 の亂 るればなり。【漢文】
泰。小往大來、吉亨。
泰、小往大來、吉亨。則是天地交、而萬物通也。上下交、而其志同也。內陽而外陰、內健而外順、內君子而外小人、君子道長、小人道消也。
天地交泰、后以財成天地之道、輔相天地之宜、以左右民。
初九。拔茅茹、以其彙、征吉。
拔茅征吉、志在外也。
九二。包荒、用馮河、不遐遺、朋亡、得尚于中行。
包荒、得尚于中行、以光大也。
九三。无平不陂、无往不復、艱貞无咎。勿恤其孚、于食有福。
无往不復、天地際也。
六四。翩翩、不富、以其鄰、不戒以孚。
翩翩不富、皆失實也。不戒以孚、中心願也。
六五。帝乙歸妹、以祉元吉。
以祉元吉、中以行愿也。
上六。城復于隍、勿用師。自邑告命、貞吝。
城復于隍、其命亂也。
地天泰の卦。天地の通交であり世界の再生を示す革命の卦である。完成によって終焉と崩壊を示す天地否の対。
秩序の回復と世界の再生を暗示し、『泰』という安定をかたどる卦であるが、天地の崩壊からの再生である以上、序盤はむしろ危険と苦難をはらんだ爻辞が多い。遠征し、裸足で黄河を渡るようにして朋友を失ってでも正しい道を歩み、飢えをしのぎ、隣人へのやさしさを持つ、必ず失ったものが取り戻せるのだと信じて……まさしく流浪の英雄による冒険活劇のようである。抽象的な文章ながら訳していてワクワクした。
さて、この卦のクライマックスは「帝乙が妹を嫁がせることで天の恩寵に社会があずかる。元吉。」というもの。この帝乙は伝統的に暴君とされる殷紂王の父のことを指すのだとされ、彼が各地の諸侯に妹を嫁がせることで秩序を回復したことを示しているとされているのだけど……本当か? 史記や書経に紂王の父親にそんな善玉エピソードはないし、仮に伝えられない伝承においてここに記されたような賢君であったとしても、次の紂王が破滅させるのでは台無しである。あんまり大した効果がなかったのでは? それに体制の確立された王朝末期の王が冒険活劇なんか演じるかな……。全体的にすげーあやしい。
じゃあ帝乙について甲骨文等の発掘資料を確認してみればそれっぽいエピソードが見つかるかなー、なんて思いきや、実は史書に載らない隠れたエピソードなんてどうやら見つかっていないらしく、それどころか、そもそも殷の存在した当時の王統には帝乙の名自体が載せられておらず、実在さえ怪しいとされているのである。
うーん、納得いかない! 結局なんなの、これ! と思ってウダウダと考えているうち、ひとつの仮説を思い立った。帝乙とは太乙のことであり、つまり殷王朝の創始者である湯王のことではないか。
孟子によれば、はじめ湯王が小領主だった頃、葛という国を治める領主の葛伯が非道なふるまいをしていたことから、これを征伐したという。これが湯王の王業の始まりであり、そこから周辺国が報復に出ればそれに応じて東へ西へ湯王が征伐し、その威名は徐々に大いなるものになっていったという。征について触れる初九や、黄河を渡って危険を冒す九二本文序盤に相応する。そして湯王は他にもかつて夏王朝の桀王から幽閉される等の苦難も経験したが、これを乗り越え、料理人の伊尹が彼の宰相となって助力したため、遂に夏王朝を打ち滅ぼしたのである。これなら本文の冒険活劇のストーリーに合致するだろう。『于食有福』という食事に福を見出すところは、もしかすると料理人の伊尹の助力を暗示しているのかもしれない。
……いやー、我ながら説得力ある仮説と思うんだけどなー。
全体的に好きな卦なんだけど、「あなたには隣人がいる。厳格さを捨て、まごころを持つがよい。」のところ、ここは革命の本質を有しているように思う。矛盾の果てに秩序の崩壊した世界では、かつての硬直化した法を厳格に運用したところでかえって混沌を加速させるだけである。むしろその本質となる徳を再発見する必要があり、ゆえに厳格さを捨て、まごころを持つことが混沌における然るべき方法になるのだ。