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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

上帝という種
焚巣館 -聖経 創世記 第六章 翦滅於地 地ヨリ翦滅(センメツ)ス-
https://wjn782.garyoutensei.com/kanseki/seikyou/01souseiki/06senmetsu_ochi.html

 本日の更新。本章から大洪水、いわゆる『ノアの方舟』のエピソードに突入する。以後、4章にわたり繰り広げられる、聖書初の長編ともいうべき物語だ。今回はその冒頭である。

 今回の大洪水は、後年のソドムとゴモラの滅亡と並び、上帝による苛烈な審判の双璧として語られる、もっとも有名な事件のひとつであるが、その規模は他の追随を許さない。なんといってもノアの一家以外のすべての人類が死に絶えたのだ。現生人類は、聖書の語るところによれば、アダムとイヴの末裔であると同時に、ノアの子孫でもある。つまり、これによってノア以前の人類の身体のみならず、その営為も文化もすべてが水底へと沈められたのである。人間だけではない。地上のあまねく種族の動物も雌雄の一対を除いてすべて殺された。上帝の罰とは、時にこれほど重いものなのだ。

 ……ということなんだけど、この事件における重大な要因であるにもかかわらず、あまり一般に知られていない事項がある。そもそもノアの時代に洪水で剪滅された人類の罪とはなんだったのか、それがほとんど知られていない。ソドムの市における罪が男色であったと解され、広く知れ渡っているのとは対照的である。当時の人類の罪は本章の冒頭に”わかりづらく”書いてある。その部分を引用してみよう。

1-2人民が地に繁殖して育まれた女子、彼女らの容姿は艶やかで麗しく、それを見た上帝の息子たちも、遂にはどれにしようかと迷いながらそれらのうちから選び取り、娶って奥方とするようになった。
3耶和華エホバは言った。「人は欲をほしいままにするようになってしまった。我が神霊がいつまでのあやつらの中に入れ込んだままにしておくようなことがあってはならぬ。」こうしてもはや彼らの生命の限りは一百二十年となるに至った。
4当時、世には偉丈夫がいた。上帝の息子と世間の人間の女が寝室を同じくすることにより、その英才と武威を育んだ、太古からいつも名声がつとに広く明らかにされてきた者たちである。○

 これがノア一家以外の人類が皆殺しにされる前の人類の状況である。なんとなく、何が問題であるかはわかるけど、いろんな意味でわかりづらい。

 まあ、そのわかりづらさの要因のひとつは訳文にある。単純に俺の訳文が読みづらい。これは当該部分の漢文が日本語にそのまま逐語的に違和感なく訳すのが難しく、こなれた訳にすると意訳をせざるを得ない感じで、結果として逐語訳的にしたという判断によるものだ……と言い訳しておく。一応、意味は分かってもらえると思うのだけど、もっとわかりやすい訳文として共同新訳を引用する。翻訳サイトを開設しておきながら、自分の訳がわかりづらいからと別の訳を持ってくるのは自分でもどうかと思うけど。

1さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 2神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。 3主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 4当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.6.%2525E6%252596%2525B0%2525E5%252585%2525B1%2525E5%252590%25258C%2525E8%2525A8%2525B3

 こちらではネフィリムという固有名詞が登場する。要はどういうことか。ノア以前、当時の地上には人類が繫栄していた。そして人類の女性が美しかったので、上帝の子が人との間に子を生んだというのだ。もちろん内容からいって一人ではない。たくさんの上帝の子と人との間に生まれた子が地上に繁栄し、これらはネフィリムといった。本文からは、どうにも歴史上の英雄はすべてネフィリムだった、というような含意を感じる。

 半神半人の類が英雄とされる人物の英雄譚は東西の歴史に広く顕れる。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスはその典型であるが、ギルガメッシュ叙事詩のギルガメッシュも系譜の3分の2が神であり、日神や月神の子孫を自称したインド諸王の伝説や天皇や諸貴族の祖先を神とする日本神話もこの類型に入れてもよいだろう。こうした英雄が地上に増えていった……というのが聖書の筋書である。

 この現状について上帝は善しとしなかったようだ。漢訳版では、「人は欲をほしいままにするようになってしまった。我が神霊がいつまでのあやつらの中に入れ込んだままにしておくようなことがあってはならぬ。」とあり、共同新訳では「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」とある。対応するのは、「人は欲をほしいままにするようになってしまった。」と「人は肉にすぎないのだから。」であるが、だいぶ話が異なるように見える。原文に近いのは後者であり、ただし原語のニュアンスとして「肉(肉体、バーサール)」には欲を生み出す穢れたもの、有限の朽ちるべきもの、堕落したものとしてのニュアンスがあり、霊(ルアハ)との対比としての含意がある。

 さて、前回の記事では上帝と人の関係をAIや牧畜で譬えた。今回の事態はさらに深刻である。人に対する上帝の立場をAIや家畜に対する人に置き換えれば、アダムとイブの逸話と比べても深刻に倫理、そして上帝という種の存在の根底を揺さぶるものだからだ。ちなみに次の第5節以降、突如として神は「人間が堕落して罪を犯すようになったから絶滅させる」という話を始める。しかし具体的な行為についての記述は一切ない。

5耶和華エホバが世の人を概観してみると、悪をなしてどこまでも広がり満ち、心に企図されているものといえば、いつも悪の思念を懐いていたのだった。
6ここで耶和華エホバは既に世の人を創造したことについて、翻って後悔の心が現れ、哀しみとともにそのことを憂いだ。
7耶和華エホバは言った。「これから私に創造された人間を、地より翦滅する。そして犠牲の家畜や昆虫、飛ぶ鳥にもそのようにしよう。そうだ、これらは私によって作られたものであることは確かだが、私は後悔するばかりだ。」
8ただ挪亞ノアだけが耶和華エホバの御前において、恩寵を受けることができた。○

 実はこれ以降の物語は、第1~4節がなくても話は通じる。むしろスッキリするくらいだ。もし第5節から物語が始まっていれば、それは牧畜の譬喩でいえば、単なる主人の期待に応えられなかった家畜の処分、AIの譬喩なら出来損ないのAIのデリート、そのような話で済む。しかし、あえて冒頭に置かれた上帝の子と人類の女の交わり、そして英雄ネフィリムの誕生が事態を大きく複雑にしている。

 これらは多角的な考察と読解の材料となるが、ここでは、これまで論じてきた『我儕』という一人称についてのみ触れておく。上帝の子が登場したことで、上帝が孤独な単一の存在ではなく、ある種の「種族」的な存在であることがここで暴露されている。もちろん近現代的な遺伝などの概念に基づく厳格な生物的種の枠組みでとらえる必要もないし、とらえられるものでもないだろう。ただし、人類を上帝の子とする語は聖書において、特に新約の中に数多く登場するが、ここでの意味はそれに当てはまらない。むしろ人類と明確に区別されていることは留意すべきである。『我儕』という語の含意も、やはりここで複数形の上帝エロヒームを想定せずにはいられない。

 こうした天の情勢については今後も断片的に聖書内にて登場し、これが新約聖書の最終章であるヨハネ黙示録によってしっかりと決着するわけであるが、これについてはまた論じよう。

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