焚巣館 -聖経 第三章 能別善惡 能ク善惡ヲ別ツ-
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本日更新。創世記の第三章。蛇の誘惑とアダムとイブの楽園追放、いわゆるパラダイス・ロストのエピソードである。このあたりは日本語訳でも馴染み深く、序盤ゆえに何度も読んできたはずであるが、自ら翻訳に挑むとやはり印象が変わる。
もちろん、邪気眼である俺様が聖書の蛇を好むことは言うまでもない。わくわくしながらセリフを訳し、口調にもこだわった。「――上帝とそっくりそのままになってしまうことを、上帝はご存じなのさ。」という蛇の誘惑、これは後に上帝自身の言葉によって正しいことが明らかになる。そもそも、アダムとイヴは死んでいないし、ここで蛇はなにひとつ嘘をついていない。蛇の言葉はすべて事実である。むしろ嘘をついたのは上帝だけじゃないか? とすら思えてくるが、上帝は「『食べてはならぬ。もぎ取ってはならぬ。死に陥ることを恐れよ(共同新訳では、「死んではいけないから」)」と禁じているだけで、食べたら(直ちに)死ぬと断言したわけではない。なので、上帝の言ったことも噓とまでは言い切れない。それを踏まえてみれば、蛇が最初に「上帝は本当に語ったのかね? 『食べてはならぬぞ』という言葉を。」と尋ねたことは、実に巧みな弁舌だというほかない。
さて、ここでのイブは一般におろかな女として語られがちだ。蛇に騙されて人類がエデンを追放される元凶となった女である、と。伝統的には、だから女はおろかなのだとして女性を蔑視する根拠に用いられてきたし、一方でこれを批判する男女平等主義からは、女性蔑視のためにこのような描写を聖書がこしらえたのだと主張される。私自身、これまでなんとなくイブが蛇にそそのかされて実を食べた描写を単純に男尊女卑の反映だと受け取っていた。確かに前章でのイブはアダムの肋骨から創造された「男性の一部」であり(取之脇骨成女)、本章でもイブの罪によって女性は男性の従属者となることが上帝から宣告されるのだ(夫爲爾綱)。
しかしながら、イブが知恵の実、本文でいうところの善悪分別の実を食べた理由は、果たして世に言われるような「女のおろかしさ故に蛇に騙されたこと」なのだろうか。
まず第一に――これは前述の内容とも重複するが――イブは事実に基づいた判断しかしていない。たとえば蛇が「上帝は人間を愛しておられる。ゆえに『この実を食べてよい』と伝えるように私に命じられたのだ。」などとイブに吹き込んでいたなら、それこそ「おろかな女が蛇に騙された」と言って差し支えないかもしれない。しかし、事実がこれと異なる点は、一般に驚くほど見過ごされている。
第二に、イブは何を求めて善悪分別の実を食べたのか、という問題である。たとえば蛇がこのように誘惑していればどうか。
「ひとたびその実をお前さんが口に含めば、鼻腔を抜ける芳香はこれまで口にしたいかなる果実をも凌駕し、お前さんの舌に触れた瞬間、世界のあまねく美味も泥を噛むに等しく成り下がるだろうね。」
このように美食の快をもって蛇が誘惑していれば、これが事実であってもそうでなくとも、これに応じて上帝の命に背いたイブは、おろかと言って差し支えない。しかし、イブが求めたものは何であったか。蛇が提示したものは何であったか。それは善悪の分別ができること(能辨善惡)である。そしてそれは、蛇の言葉によれば、「上帝とそっくりそのままになってしまうこと(彷彿上帝)」に他ならない。イブが求めたのは単なる果実の甘美ではなく、上帝(神、天主、エホバ)と等しき能力を手に入れることだったのだ。果たしてこれをおろかであると断じることができようか?
もちろん、これをもってしてもイブをおろかしさゆえに蛇にたぶらかされたのだと論じることは可能である。上帝によって土から創造された塵に等しき身でありながら、その分際をわきまえず、創造主と並ぶ存在たらんとして野心と好奇心に身を焦がし、上帝の定めた絶対の法を犯したイブ。彼女はやはり大罪人であり、その所業はおろかしきこと甚だしいものである、と。これはこれで筋の通った議論であり、なんとなれば私はこれを一理あるとさえ思う。
しかしながら、そのように断じた時点で、もはや「女は無知でおろかでのろまで男が庇護せねばなにもできぬ。ゆえに女は男に従属せねばならぬのだ。」とし、その根拠に聖書の本章を持ち出すことはできなくなる。そのおろかしさは、天に届かんとして建てられたバベルの塔のごとく、知性の火を盗み取ったプロメテウスのごとく、真理を曲げること能わずに獄へ繋がれたガリレオのごとく語られなくてはならない。真実を知ることの災厄と引き換えに神々への従属から人間を解放したパンドラを罵るのであれば、エジプトでの奴隷時代を懐かしむ者たちと共にモーセを罵るがよい。イブは自らのおろかしさゆえに無自覚のまま蛇に騙された憐れな愚者ではない。自らの意思で自立を求めた自覚的な反逆者なのだ。
楽園追放が自由と解放の物語と解釈であることは私でさえ気づくほど自明にことであって、これは今回の翻訳を通じた調査で初めて知ったことであるが、どうやらロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニンも、神話における蛇(サタン)の役割に注目し、『神と国家』において、次のようにサタンの自由への反逆を顕彰したようである。
The Project Gutenberg eBook of God and the State, by Mikhail Aleksandrovich Bakunin
https://www.gutenberg.org/cache/epub/36568/pg36568-images.html「彼(エホバ)は、知恵の樹の実に触れることを彼らに明確に禁じた。したがって彼は、自己に対するいかなる理解も欠いた人間が、永遠の神、すなわちその創造主にして主人の前で、永遠に四つ這いの獣のままでいることを望んだのである。」
「サタン、永遠の反逆者、最初の自由思想家、そして世界の解放者。彼は、人間にその獣じみた無知と従順を恥じさせる。彼は人間を解放し、不服従を促して知恵の実を食べさせることによって、人間の額に自由と人間性の刻印を押すのである。」
しかしながら、同書をどれだけ確認しても、イブはアダムの付帯物として「アダムとイブ(Adam and Eve)」という形でしか言及されていなかった。ところが聖書の本文では、なぜ善悪分別の実を食べたのかという上帝の問いに対し、アダムが蛇について触れず、実行犯がイブであり、この状況をつくりあげたのが他ならぬ上帝であると弁明したのに対し(爾以婦賜我、與我爲偶、婦予我菓、而我食之)、イブは蛇との直接的な交渉が存在したことを認めている(蛇誘我食之耶)。これはイブこそが上帝と並ぶ存在になりたいと最初に願って罪を犯した最初の人間であることを示す、小さいが確たる差異のはずである。バクーニンのみならず、サタンの顕彰やアダムとイブの楽園追放を解放の物語とする解釈は世にあふれているが、人間における最初の反逆者がアダムではなくイブであったこと、ひいてはその役割が男性ではなく女性であった事実だけは常に無視されている。
この事実に目を向け、ふたたび検討することには、価値があるかもしれない。
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