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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

731部隊の創設者石井四郎を輩出した京都大学の連中がいけしゃあしゃあと戦前に反戦であったかのように言いふらた結果、自分たちがナチス以下の最低最悪の存在だと自ら示してしまう。


 なに言ってるんだ、こいつ。

 京都大学は中国人や朝鮮人に非道な人体実験を繰り返した731部隊の創設者石井四郎を輩出し、当時在籍していた医学や生物学に関わる大学教授が数多くそれに関わっていたのは有名な話だし、当時京都大学を代表する哲学思想学者の『京都学派』は大東亜共栄圏を構想して民衆に「お国のために死ね」と煽動していたのに。
 もちろん、A級戦犯輩出者数世界一が東京大学であることは言を俟たないが、その陰に隠れていけしゃあしゃあと「世が軍国主義に向かう中でも空気を読まず反発し、軍事教練は適当にこなしてたような」などとあたかも京都大学が反戦であるかのように偽装して、こいつら恥というものを知らないのか? 731部隊はアメリカと協力することで戦犯にならなかっただけだろ? むしろ、戦犯よりタチが悪い連中である。
 そもそも、大規模戦争を起こしづらくなった現代において、細菌兵器などの開発の方がよほど人類的な危機を招いているのが現状であり、この時点で731部隊を裁かなかったことの報いが人類に及んでいるようにさえ思える。

 そもそも、こういう『典型的な京都大学的な自意識』というのは本当に気持ち悪い。京都大学のコスプレ卒業式とか、創立者の像になんかよくわからん装飾を施したりするの、ああいうのにあこがれるのは中学生までにすべきである。「京大生は大学生だから中学生で卒業したら京大ノリがなくなる」というツッコミが来そうだけど、お前らがただのガキだって言ってるんだよ。アホか。
 むしろ、「知性のあるボクたちのおふざけ! 不謹慎!」みたいな『京大ノリ』的自意識こそ、まさに2ch的イデオロギーでネトウヨを日本に蔓延させた元凶だし、本人たちは「東京大学のような一番病のエリートと違って"真の知性"がある」みたいな自意識なんだろうけど、要はこいつらメインストリートを歩むような責任感がないだけな悪い意味でサブカル意識でしかない。

 京大がこういうことを言う背景だって、「東大は戦争協力の首魁としてこういうことは言えないだろうけど」みたいな自意識をスゲー感じるんだよな。それがまた気色悪い。要は東大を矢面に立たせることで、自分たちが責任から逃れているだけ。一番東大に依存しているのがああいう京大自意識の連中。まさに戦犯となることを逃れた731部隊は京都大学を象徴する存在と言えよう。「A級戦犯(東京大学)と違ってツウこそわかる731部隊(京都大学)」みたいな? 死ね。岸とアメリカの関係を見れば、東大も京大も共犯だけどな。


 それにしても「空気を読まず適当にこなしていた」って、いかにも京大らしいクソみたいな自意識だよな。空気を読んで、だからこそサボっていただけだろうに。腹の底で人を馬鹿にしながら、ふざけたふりして物事に責任感を持たないことで難を逃れ、悪事を行ってもその自覚がない。ある意味では、東京大学よりタチが悪い。ある面でヒットラーよりヒムラーの方が邪悪であることに相似たりである。

 当たり前の話なんだけど、本当にガチのマジで空気を読まなかったら反抗するはずだよな。本当に当たり前の話だけど。
 もちろん私だって軍事統制下になれば、必ず命を賭して反抗できる自信なんてないからそれ自体を責める気にはならないし、「戦争が正しいとは思わなかったけど、反抗なんてする勇気はなかった。だからせいぜい軍事教練で手を抜くくらいしかできなかったんだ」なんてことならとても共感しうる話だよ。それか、たとえば「軍に参加しながらも敵地の庶民を被害から匿っていた」なんてのは誇りになるかもしれない。でも、「空気を読まず適当にこなしていた」なんて程度の話は「誰がなんと言おうと主張を貫く京大はどこですか?」につなげるにしては話がショボすぎだろ。本気でこれが自慢になると思っているのか? いや、マジでこれ読んで「ウーム、京都大学が戦時中に軍事教練を空気を読まず適当にこなしていたとは、やはり誰がなんと言おうと主張を貫くのは京都大学ならではであるな!」と思う奴いるのか!? 500以上favがついているのがやべーよ。
 私だって別にものみの塔のようにあらゆる戦争に最後まで反対して投獄されてから反戦だったと主張しろとか言ってるわけじゃねーんだよ。あたかもそういったものと自分たちが同じであるかのようにたかだか「空気を読まず適当にこなしていた」程度の話を自慢して、「誰がなんと言おうと主張を貫く京大はどこですか?」なんて言い出すの、本当にどうなのって話なんだよ。「空気を読まず適当にこなしていた」のど・こ・が・「誰がなんと言おうと主張を貫く」なんだっつーの! テメーんとこの出身者が理科系では731部隊を創設して京都大学に在籍する教授がそれに積極的に協力し、文科系では庶民に戦争で死ねと煽っていたのに、どうやって大戦のことが京都大学の誇りにできるんだよ! お前らの京都大学は中国人や朝鮮人を人間と思わずその身体を解体して殺して拷問や実験を繰り返した大学なんだっつーの!! 京都大学は空気を読んだ上で、適当にこなしてたんだよ! むしろ世間の空気をつくってたのがお前らじゃねーか! その結果、731部隊を自ら生み出し、その責任さえ取らなかったんだっつーの! お前みたいなカスも含めて全部地続きだ。愛校心を持つなとは言わんが、戦中の京都大学を誇ることなどよくできるな。


 こうして総合すると、京都大学の連中は、日本の人民には大東亜戦争の必然性なるものを世間に吹き込んで庶民に戦争で死ねと煽り、植民地の人民には非道な人体実験を繰り返している最中、その学生はそれらの教授からアリガターイ薫陶を受けつつ、京都大学の教授に煽られて人民が窮乏と労役、徴兵に苦しむ中でも、それらと困苦を共有することなく「軍事教練は適当にこなしてた」ということになる。
 ……なぜこんなことを誇りに思えるんだ? これなら本気で大日本帝国の正義を信じて真面目に軍事教練をした方が救いがある。軍部の指導者などを擁護するつもりはないけど、曲がりなりにも反省の弁を述べ、処刑によって末端の兵と同じく死んだ戦犯たちは京都大学の連中と比べたら随分まともだと評価せざるを得ない。
 京大のマヌケどもは「まじめにやらなかったから俺たちスゴイ」と思っているのだろうけど、東大や戦犯と違って連中は『真面目にやることすらできなかった』だけなの。それが京大。731部隊を生み出したのはお・ま・え。クソみたいに斜に構えた態度をアイデンティティにしているお・ま・え・が京都学派や731部隊なんだよ! 死ね。もう死に逃げした連中の代わりにお前が死ね。なにが「京大が世間に屈したそうです」だよ。世間に軍国主義を吹き込んでたのはお前らじゃないか。本気で腹が立ってくる。本当に恥というものを知らないらしい。もう死ね。


 正直、この記事を書き始めた当初は京都大学がここまで最悪の存在だとは思ってもみなかった。私は731部隊や京都学派のことは知っていたので、それを持ち出してちょっとカウンターをかける程度のつもりだったのだけど、まさか上記のツイートとそれが合わさることで、ここまで最悪の存在が眼前に立ち現れるとは思わなかったんだよ、ホント。そういや、青メガネとかシュナムルとか京都大学だもんな……。
 冗談でも誇張でもなく私は泣いているし、人間がここまで醜悪になれることに恐怖を感じている。京都大学はナチス以下。本当にナチス以下じゃん、これ。ネルフとかいう最悪の組織のお偉いさんも京都大学出身ばかりだし、コロナウイルスを開発したのが京都大学であっても驚かない。人類悪である京都大学はこの世から除去しなくてはならない。
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【論語私箋】現在に至る道


≪原文≫
 子曰、温故而知新、可以為師矣。

≪書き下し文≫
 子曰く、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為す可し。


 本章句は、『温故知新』という故事成語にて有名であり、これは「古いことを学ぶことで新たな発見ができる」という意味で解釈されてきた。しかし、古いことから新しいことを見いだすことが、なぜ師となることにつながるのだろうか。この解釈では前段が後段の『師』という概念と十全に接続されていないように思われる。
 
 古いものを古いというだけで棄却せず、そこから新しいものを見いだす者、それは確かに有能な発明者である。しかし、師となるために有能な発明者であることは絶対的な条件ではない。孔子自身、「私は過去を祖述するだけで、自らの独創はしない。自身の信念に基づいて先人の業績を愛好しているだけである。私はひそかに、自分の役割は八百年間歴史を語り継いだ伝説の語り部彭祖に比肩するものだと自負している。(※1)」と述べている。彭祖は過去に起こった事実を述べただけで、自ら創作をしたわけではない。孔子は自ら独創的な発明をしていないと主張し、書物のない時代を生きた伝説の語り部彭祖を自らと同一視していた。発明者であることは弟子を教導するための絶対的な資格ではない。

 ところで、師とは相対的な存在である。師は古義では、軍隊の指揮官であったが、ここでは教導者、教師のことである。軍隊の指揮官に指揮される兵士が必要なように、教導者には教導される弟子が必要である。
 師という語から連想される者と聞いて想像を喚起されるもの、年長者、有職故実や古典などの学識が深い者、伝統的な技術に通じた者……こういったイメージに発想を引きずられ、具体的な特性を検討することに気が回らず、ついつい従来的な解釈に納得してしまうのは理解できる。しかし、本章句を正確に解釈するなら、後段に現れる『師』の特性に対して、よりスムーズに接続できる解釈を前段の『温故而知新』に施すべきであろう。師の本質は弟子との関係にある。

 弟子と師が相対的な概念であるのと同様に、『新』は時間における相対的な概念である。弟子と師の概念が互いの存在を必要とするように、『新』にも過去の存在がなければ成立しえない。
 『新』とは何であろうか。「古いことから新しいことを学び取る」という『温故知新』の従来的解釈は、欧州におけるルネッサンスなどの古いものから革新的な概念を発見する歴史的事象を想起させる。また詩経には『周は旧き邦であるが、その天命は新たなものである(※2)』という一節も登場し、これは古くからある周という国が新たに天命を受けて時代を築くという意味で維新の語源となったが、これも「温故知新」という古事成語と重ね合わされる。維新にせよ、ルネッサンスにせよ、その後の未来を切り開く印象が強烈であるために、ついつい『新』という語の含意に、我々は過去との対義語として未来を見出してしまう。そのために、ついつい「過去のものから新たな発明を着想する」という解釈を施してしまうのだ。
 しかし、『新』という概念には『未来』という含意はない。あるいは極めて二次的な含意である。『過去』との対比において、『新』という語が直接含意する所は『現在』である。それは、最新という語が現在そのものか、あるいは過去の中で最も現在に近い時点を意味することからも明らかである。100年前の技術と対比して昨日や今日に発明された技術を最新と呼ぶことはあれども、100年後に開発されると想定される技術を現在から見て最新技術と呼ぶことない。先述の『温故而知新』という前段において対比されているのは、過去と現在である。

 また、『温故而知新』における過去は『古』ではなく『故』の字が当てられている。『故』とは何か。第一義には「事の起こり」「原因」であり、第二義には「経歴」「来歴」である。『故』で示される過去とは、現在に至るまでの過程であると考えられる。また、『温』は『温習』という語があるように、確認することである。温故とは「これまでの過程を確認すること」であると解釈できる。

『これまでの過程を確認することで現在を理解することができる者に、弟子たちを教導する師となる資格がある。』

 このように本章句を解釈すれば、従来の解釈とはまったく違った景色が見えてくる。

 人は何も知らずに、赤子としてこの世界に生れ落ちる。赤子には現在しかない。目の開いた赤子の眼前に家が建てられていても、それを”建てられた家”とは認識しない。土台を築き、柱を立て、床を張り、梁を渡し、屋根をかけ、壁を塗って戸窓を開けた”家に至る過程”を赤子は認識できないのである。赤子には『新』しか存在しない。『新』は過去との相対的な存在であるが、赤子にとっては『新』が絶対である。ゆえに『新』が『新』であることも知ることができない。その赤子に『故』を辿らせ、その果てに『新』を位置付ける営為が教育である。

 もし、この赤子が誰にも何も教わることなく野山に放り出されるとしたら、目の前の家を建てる方法を着想することができるだろうか。ただ一人で誰にも学ばず手本となるものもなければ、ほとんどの場合は一生をかけても斧をつくり木を切るところまでも、おそらく行き着かないはずである。言語も同様で、現在のような複雑な言語を構築することは一代では成し遂げられず、幾ばくかの種類の鳴き声を発明するにとどまるであろう。そのような野生の人類が何千何万集まろうと、一代でコンピュータが発明されることはない。このように、人類が一代のみ存在していても、その有様は所詮動物の一種として他との差異を見出すに足らない存在である。
 しかし、生物の進化は歩みが遅いが、人間の生活は原始から古代、中世から近代にいたる過程で激変している。なぜか。人間が教育という形で過去の事業を引き継いだからである。荀子は言う。「君子と他の人々は生来によって差異があるわけではない。君子は善く物に仮(借り)るのだ(※3)」と。『学』とは、人からの『仮(借りること)』によって成立している。

 我々は時間の中に生きている。現在は過去との連続性に成立している。荀子は言う。「干越夷貉――いかなる民族の子であれども、生まれたばかりの赤子は同じ声で泣くのに、成長するとまったく違った言語を話し始める。これは教育がそうさせているのだ(※4)」と。赤子という素体はあらゆる民族に関わらず似通った性質を持って誕生するが、それ以後に教わったもので性質が異なる。論語では人間について、「うまれつきの性質は似通っているが、習俗は異なっている(※5)」と述べられている。
 赤子が教わった民族の言語は、この赤子が生まれる以前から存在する。そして、言語はその過去、その過去から更にその過去、変化を繰り返しながら連綿として受け継がれてきたものである。言語には、現在を成立する過程が存在している。
 言語に限らず、技術、儀礼、音楽、料理……赤子が生まれたのち、大人になるまでに教育されるものは、その赤子が存在していない時から連綿と続く過程を持ち、時と共に人々により肉付けされ、あるいは削ぎ落とされ、現在に引き継がれてきたものである。赤子は自らが誕生する以前を、自らが引き継ぐことで大人になり、自らもそれを変化させながら、次世代へと引き継ぐ。赤子は成人するにあたり、他者であった過去との連続性に自己を位置付けられる。

 また、これは孔子の教えにおける根本原理である仁とも、儒教における孝の概念とも連続している。孝とは肉体的に過去からの連続性がある両親との精神的な繋がりである。そこから孔子は血縁に由らぬ人から人への思いやりの心『仁』を抽出した。仁とは、他者を自己に重ね合わせること、則ち、他者を自己として受け入れる営為である。それは、自己の存在以前の過程『故』から現在『新』に至るまで学んできた他者である師を、自己として受け入れる営為、則ち『学』にも通じている。そして、孔子と顔回がそうであったように、師弟は血縁を越える関係である。人は『学』によって技術を、知識を、精神を、まるで蝋燭の灯のように、人から人へと伝えることができる。

 孔子は言う。「これが民衆だ。夏、殷、周――これら三代の王朝すべての文化が連続していることは、他でもない彼らが証明している。(※6)」と。また、孔子は弟子の子張に未来を知ることができるかを質問されて、次のように答えた。「殷王朝は夏王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。周王朝は殷王朝の文化を引き継いでいる以上、それらを比較検討すれば、何が切り捨てられ、何が追加されたかを知ることができる。これらの歴史法則を解析すれば、周の文化を引き継いだ後も、百世先であろうと知ることができる(※7)」と。孔子は、現在存在する人間の文化が過去からの連続性の上に存在することを知っており、それらを取捨選択することで現在に至る人類の発展があることを知っていた。

 人は現在の成立過程を確認することで、現在に至るまでを再生する。家を建築する過程を確認することで家を建設することができるように、学芸にせよ、武芸にせよ、技術にせよ、師が弟子に自らの業(わざ)を伝えることは、現在に至るまでの過程を伝えることである。
 師は過去から現在に至る道を継承し、それを他者に伝えることで、弟子を過去との連続した時間の中に位置付ける者である。ゆえに、これまでの過程を確認することで現在を知ること、それが師の条件となる。


※1 論語述而第七
※2 詩経大雅文王篇
※3 荀子勧学第一
※4 同上
※5 論語陽貨第十七
※6 論語衛霊公第十五
※7 論語為政第二

「ホモソーシャルの何が問題か」がイマイチ理解されてない気がする。

こういう基本事項が一切省みられないから話が混沌とする。 これとか、 これとか。
 先の人はこういう謝罪文を出したようだけど、ホモソーシャルとはなんぞ、という基本事項をちゃんとおさらいした方がよいのではないかと思う。二番目に挙げたアンチフェミのゴミみたいな言いがかりはひでーなーと思うけど、同時にホモソーシャルのなにが問題なのかについて、Twitterなんかでは順序だてて論じられているところを私は見たことがない。もしかしたらあったかもしれないが、小難しい専門用語が並んでたり、難解な言い回しで書かれてて、私には理解できなかったからスルーして記憶から消えてるような気がする。そんな状況だから、こういうアホらしい話が登場する側面はあるだろう。

 簡素なものでは、ホモソーシャルについては「男性同士の結びつき(同性同士の結びつき)」という説明しかされない。これでは、「男同士のコミュニティの何が悪いんだよ」という反応が出るのは当たり前である。そして、逆転させれば上のような「男だけのコミュニティはホモソーシャルなのでミサイルを撃ち込むべき」だの「男同士で支えあえと言うのはお前たちの批判したホモソーシャルだ」などという勘違いやくだらない煽りが生まれる。
 というわけで、このへんをちょっと整理しておく。

 言うまでもないと思うのだけど、ホモソーシャルの問題は基本的に同性間の友情や愛情そのものではない。同性間で友情や愛情があることのなにが悪いのか。なにも悪いことなどない。そんなことは当たり前の話だろう。
 では、問題となるホモソーシャルとはなにか。ホモソーシャルの根本的な問題点は、「女性を道具として介在させる男性同士の関係」である。これは男だけを社会の構成員として人間扱いし、女を財産、道具として扱うことに他ならないからだ。これだけだとわかりづらいと思うので、説明を続ける。

 これに関しては、はっきり言ってWikipediaの出来が良くない。もちろん、私は専門知識なんぞまったくないので、これを編集することもできないのだけど。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB
ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。

ホモソーシャルという言葉は、イヴ・セジウィックによる「男性のホモソーシャル(同性間の結びつき)への欲望」という議論によって普及した[1]。それよりも早い1976年に、ジーン・リップマン=ブルーメン(英語版)が性的な意味ではなく、社会的な意味での、同性の仲間への選好をホモソーシャリティ(homosociality)と定義している[2]。

男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成される。

ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。

なお、研究者の中には、この概念を女性同士の関係にも適用し、「女性のホモソーシャル」を論じる者もいる。東園子は、やおい・ボーイズラブを好む女性オタク(いわゆる腐女子)や演者は女性だけで構成されている宝塚歌劇団のファンの女性の間でホモソーシャルな絆がみられると論じている[3][4]。

近年、ホモソーシャルは男性と男性の繋がりだと誤認されがちだが、女性と女性の繋がりもホモソーシャルとなる。さらに言えばホモという言葉も同性という意味である。


 これ、読んで理解できる人いるの? 私くらいじゃないか、一切前提知識なしでこれを読んでホモソーシャルとはなにかを理解できる人。

ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。2人以上の人間が結ぶ関係は、ホモソーシャル(同性と)、ヘテロソーシャル(異性と)、バイソーシャル(両性と)のいずれかでありうる。


 これだけでは、単純に「同性間の結びつき」としか読み取れないだろう。これだけ読んで、ホモソーシャルのなにが問題かわかる人がいるのだろうか。いたらすごいと思う。

男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う。ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が構成される。


 ここもそうだ。これだけ読んでピンとくる人がどれだけいるのか。ホモフォビアだとか、女性の家事労働に頼るとか、それが問題であることはわかっても、それと同性間の結びつきとの関係がイマイチわからない。

ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。


 これを読んだ段階で私はすぐにピンと来た。でも、たいていの人はピンとこないと思う。

 「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」

 これが一番顕著なのは処女厨の男である。処女厨が意識しているのは、言うまでもなく女性の身体的特徴としての(たとえば処女膜だとか)処女ではない。他の男の存在である。他の女に先を越されたことへの劣等感が処女厨の男を支配しており、あるいは先に処女を「いただいた」男が後の男に対して優越感を持つこと、そこにホモソーシャルにおける女性差別の問題がある。この恋愛関係はその実、男性は女性自身を見ておらず、その先にある男性を見ている。この関係は男同士の関係に女が道具として介在しているだけなのだ。ここでの女は人ではなくモノ、財産なのである。

 財産がそうであるように、ホモソーシャルにおいては、女の奪い合いがあれば、女の分かち合いもある。
 例えば戦国武将の政略結婚を思い浮かべればいい。貴族同士の男性社会において、和睦や同盟の証として娘を相手に差し出す。物語においても、ある男が自分の気に入った若い男に対して、自分の娘を差し出す類型は多い。エロ漫画などにおいても、強姦や輪姦を通じて、男同士が絆を深める描写はよく見られる。部族の長はハーレムの女を部下の男に貸したり与えたりすることで、御恩と奉公の関係を構築する。これらは女という道具、財産を共有することで男同士の関係を深めることに他ならない。
 たとえば、軍隊などをホモソーシャルの例として挙げる人は多いが、単純に男だらけのコミュニティだからフェミニズムにおいて問題になるのではない。たとえば、映画『フルメタル・ジャケット』のハートマンや訓練生の間で問題とすべきホモソーシャリティが現れているのは、訓練生とハートマンとの師弟関係や訓練生同士の義兄弟的な関係そのものではなく、ハートマンの「気に入った、家に来て妹をファックしていいぞ」といったセリフに表れている。「認めた男との間で、その絆を確認するために身内の女性を差し出す」という行為、ここに女性蔑視が存在しているのだ。だからホモソーシャルはフェミニズムにおいて問題視される。
 ホモソーシャルの問題点は「男性間の結びつきばかりで、女性が介在していないこと」ではない。「男性間の結びつきに女性を道具として介在させること」が問題なのである。

 ホモソーシャルはフェミニストによる糾弾はやたら多いのに、なにが問題かはイマイチ不透明で、外から見るとよくわからない。私も理解するまでが結構大変だったし、私が大変に思うということは、ほとんどの人には非常に困難かつ、そういったことを考えたり調べたりする気力も起こらないものだと思う。一度理解してしまえば簡単なのに。

 だから冒頭のような「男だけのコミュニティを嫌悪する男がフェミニズムを利用する」だとか、「男だけのコミュニティや男の友情をホモソーシャルだと糾弾するフェミがいるぞーと騒ぎ立てるアンチフェミが現れて、フェミニストに対してただの矛盾した我儘とのレッテルを貼る」だとか、そういったおかしな話をする連中が現れる。別にそいつらを説得すべきとかそんなことを言うつもりもないけど、それらの批判が的外れであることについては、対外的に説明できた方がいいような気がする。

「けものはいてものけものはいない」はホロコーストの論理であり、けものフレンズはナチス。

 もちろん、私のけもフレナチス論は考えすぎではない。これは考えるほどのことではなく直感的にわかることだし、もしこれが考えすぎなら皆が考えなさすぎなのである。
 しかし、この人は私の論の正当性を認めるだけまともである。ほとんどの連中は私のけもフレナチス論を鼻で笑い、挙句の果てになぜかこの件で私はTwitterアカウントまで凍結された。正しいことを言ったにもかかわらず弾圧されたガリレオ・ガリレイの気持ちがよくわかる。

 そういえば、昔組んでたバンドのギターと一緒にアニメ『あの花』を見ていたとき、彼が「ガリレオガリレイって変わったバンド名だよね。なんでこんな名前にしたんだろう」と言っていたから、私が「正しいことを言いながら誰にも理解されない人ってことなんじゃないの。そういう孤独感を表現した名前とか」と答えたら、「それは考えすぎ」と笑われた。全然あり得るだろ、これ。私はおかしくなんかない。おかしいのはお前らだ。


 まあ、いい。けものフレンズの話だ。
 けものフレンズはナチスである、と私は看破した。主題歌の歌詞が完全にナチスの思想を体現している。
 しかしながら、ウヨオタはおろかリベサヨにも「けものはいてものけものはいない→世界平和!」「姿かたちも十人十色だから惹かれ合うの→多様性! 寛容!」などという腑抜けた解釈しかしないマヌケが多く、非常に嘆かわしい。所詮、リベサヨはリベサヨか。
 もちろん、そんな解釈は間違っている。というより、やたらと反差別を論じる根拠に多様性を持ち出すのはナチスの考え方である。ナチスの幹部たちは多様性に満ちていた。ヒットラー、ゲッペルス、ヒムラー、ヘス、ゲーリング、多様な人材である。しかし、だからなんだというのだ? 多様性のために障害者やホームレス、同性愛者、ロマ、ユダヤ人の人権が保障されているわけではない。人権は社会全体のために存在しているのではなく、人間ひとりひとりにはじめから自然と備わったものだ。
 けものフレンズの主題歌『ようこそジャパリパークへ』を次のように正しく読解すれば、これがたちどころにナチスの思想であることが判明する。

 高らかに笑い笑えばフレンズ♪ → ユダヤ人をみんなで一緒に嘲笑しろ! 一緒に笑い合えない奴はフレンズではない! セルリアンだ!
 けものはいてものけものはいない♪ → 労働に従事できない社会ののけものはガス室に入れろ! アルコール中毒患者や障害者は存在してはならない! 動物を保護するための法律を定めるが、ユダヤ人は豚以下だから皆殺しにしろ!
 姿かたちも十人十色だから惹かれ合うの♪ → 女は産む機械であり、その機能を果たすために存在している! すべての女に優生学的に選ばれた男をあてがい、強制的に妊娠出産させろ! 同性愛者やトランスジェンダーは自らの姿かたちを生かしていない存在だから強制治療だ!


 これこそが、けものフレンズの思想である。

 けものフレンズの歌詞にある「けものはいてものけものはいない」とは、のけものでいる権利を剥奪することに他ならない。その人の尊厳をいくら蹂躙しようとも、「我々」に組み込まなくてはならず、そうでないならその人の存在を抹消する。それがけものフレンズの考え方である。
 人権においては、のけものがのけもののままでいられる権利こそが重要であり、迎合しない者を存在しないものとして透明化することこそがナチスの考え方である。アウシュビッツとは何か。都合の悪い存在を見えなくするための施設である。そこに収容されたのは、みな「健全な社会」の「のけもの」たちである。

 ドイツの敗戦後、アウシュビッツから解放された囚人たちを見た多くのドイツ国民はこういった。

「こんなことが起こってるなんて知らなかったんだ!」

 それを聞いた囚人たちは叫んだ。

「いいや、あなたたちは知っていた!」

 アウシュビッツの恐ろしさは、ただ虐殺の恐ろしさではない。存在するものを存在しないものとすることの恐ろしさなのだ。「目を逸らす」という極めて日常的な人間の行為を巨大な建築物として顕在させたのがアウシュビッツである。
 ゆえに、「けものはいてものけものはいない」という思想を行使すれば、最終的にホームレスや障害者、同性愛者、ロマ、ユダヤ人を全員ガス室にぶち込むことになる。これがのけもの問題の最終的解決であり、ホロコーストの思想的根拠である。

 フレンズじゃなくても万民に保障されているのが人権だ。なぜこんな当たり前のことをわざわざ言わなくてはならない?

加藤純一差別発言まとめ
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%B4%94%E4%B8%80%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%99%BA%E8%A8%80%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81


 この作詞をした大石昌良が差別主義者DV戦士加藤純一の仲間だと判明したことで、私のけもフレナチス論が正しいと更に更に更に証明された。たいだい、このご時世に『やおよろず』だの『ジャパリパーク』だの安易に使ってる連中がウヨじゃないか怪しまないのは勘が鈍いと言わねばなるまい。

 奴らは「フレンズ」以外の存在を認めないであろう。のけものがのけものでいる権利を奪うな!



どったん
Welcome to ようこそジャパリパーク!
今日もドッタンバッタン大騒ぎ!


ジャパリパーク
うー、がおー!

関連記事:

Twitterはナチス
http://wjn782.blog.fc2.com/blog-entry-239.html


この人が上から目線で他罰的なのは自身の強迫観念を他人に転化させているからであり、これは東夷の倭人思考法を実践するだけで簡単に変えられる。



 なんとなく「睡眠運動瞑想野菜」で検索していたら、恐ろしいツイートを見つけてしまった。ただただ私は哀しい。あまりに哀れな人だ。なぜなら、彼は普段、ここで書かれるような妄念と同様の内容で他人に攻撃ばかりをしている人だからである。
 彼が普段、人を見下したり、いつも上から目線で他罰的にふるまっているのは、これが理由なのだろう。あるいは、人を見下したり、上から目線で他罰的にふるまったりしているからこのようになってしまったのかもしれない。
 いずれにせよ、彼は病魔に侵されている。事実、彼が他人を責めるツイートは、いつも自傷行為のようであったし、時に責めたあとで自らと相手を重ね合わせてひく場面が何度もあった。私はようやく、彼に対して持っていた違和感に合点がいった。

 この苦しみを軽減させるのは簡単である。あらゆる人に幸せになる権利があることを認めればいい。どんな悪人にも幸福になる権利はあるのだ。それを認めるだけで、簡単にこのような空虚な自責心から解放される。
 私はこのようなことで悩むことはまったくない。なぜなら、いかなる悪人にも幸福になる権利があると信じているからである。自分が最も嫌悪感を催すような人間に対して、その人の幸福を私は心から願っている。だからこの人のように惑わされることがない。
 私のことを嫌っている人や私が嫌っている人が、どうか幸せであってほしい、私はそう心から願っている。彼は嫌いな人や悪人の不幸を願っているのだろう。だからこうなるのである。こうなると自分が善良だと思わないとやっていけなくなり、自らの善性を確認するために他罰的になり、また自らを苦しめる。まさにこの男は無惨な亡者だ。

 試しに毎日、自分の嫌いな人を思い浮かべ、どうかこの人が幸せでありますようにと10分間祈るがよい。それを毎日続ければ、他人を上から目線で責めたり、見下したりすることが少なくなり、自分に対しても寛容になるであろう。おそらくこのような人は、心からそれを唱え続ければ涙があふれてくるはずである。
 近頃は自己肯定感という言葉が流行しているが、この言葉に振り回されてはならない。他人を肯定すれば、自然と自己を肯定することになる。

 どうかこの人に幸福が訪れますように。自らを悪人であるとみなして自己を放棄することなく、幸福でありますように。