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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

あなたにお願い
詩経 鄭風
將仲子(あなたにお願い)

【現代語訳】
お願い。
私の村に入ってこないで。
私の村のカワヤナギの樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
お父さんやお母さんが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
お父さんとお母さんの言葉が、
同じくらい怖いのも本当だから。

お願い。
私の家の垣根をこえないで。
私の家の桑の樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
私のお兄さんたちが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
お兄さんたちの言葉が、
同じくらい怖いのも本当だから。

お願い。
私の家の中庭に入ってこないで。
私の植えたマユミの樹を折らないで。
あなたを愛していないわけじゃない。
人のうわさが怖いから。
あなたが愛おしいのは本当だけど、
人にうわさをされるのが、
同じくらい怖いのも本当だから。

【漢文】
將仲子兮 無踰我里
無折我樹杞
豈敢愛之 畏我父母
仲可懷也
父母之言 亦可畏也

將仲子兮 無踰我墻
無折我樹桑
豈敢愛之 畏我諸兄
仲可懷也
諸兄之言 亦可畏也

將仲子兮 無踰我園
無折我樹檀
豈敢愛之 畏人之多言
仲可懷也
人之多言 亦可畏也

【書き下し文】
將(ねが)はくば仲子よ
我が里を踰ゆること無かれ
我が樹の杞を折ること無かれ
豈に敢て之れを愛まん
畏るるは我が父母たり
仲は懷く可きなり
父母の言も
亦た畏るる可きなり

將(ねが)はくば仲子よ
我が墻を踰ゆる無かれ
我が樹の桑を折る無かれ
豈に敢て之れを愛(をし)まん
畏るるは我が諸兄なり
仲よ懷く可きなり
諸兄の言も
亦た畏るる可きなり

將(ねが)はくば仲子よ
我が園を踰ゆる無かれ
我が樹の檀を折る無かれ。
豈に敢て之れを愛(をし)まん
畏るるは人の多言(うはさ)なり。
仲は懷く可きなり
人の多言(うはさ)も
亦た畏るる可きなり

 紀元前からの伝統的には鄭の荘公という領主が弟と権力を争って「俺の邸宅に入ってくるな!」とブチ切れたことを風刺した詩とされる。本当か? 「はあ、昔の人が言うならそうなんですかね……」という感じで聞き流すのも可。私は聞き流す。この詩に描かれるような、自然に生じる女性の感情のゆらぎ、それに対する自身の戸惑いやためらいといったものは普遍的な恋心のテーマなので、普通にそのまま読めばいいんじゃないかな、と思う。

 ところで、こちらの詩を掲載した別サイトの解説を読むと「自分を求めてやってくる男に、乙女が答えた歌だ。乙女は男が恋しいのはもちろんだが、父母や兄弟たち、近所の噂も気になるから、そんなにあからさまに振舞わないでほしいと、男に向かって懇願しているのである。」とあるんだけど、それは表層的というか、変に道徳的と言うか、言っちゃあなんだけどズレているんじゃないかなあ、と思う。もちろん木を折るモチーフには恐怖の存在を示している。それは男性という存在への恐怖、日常が破壊されることへの恐怖もあろうが、同時にそこに強く惹かれ、その想いが強くなる自身の心情への恐怖も含まれていよう。それは詩が進むにつれて場所は村(里)→垣根(墻)→庭(園)と距離が近づき、もう一方で女性側のためらいというか、ある種の「言い訳」も両親(父母)→兄たち(諸兄)→地域の他人(人)、と遠ざかりながら外に広がっていることからわかる。理屈から言えば村と地域の他人、家の垣根と兄たち、中庭と両親の方が平仄がとれるはず。なのになぜ逆の構成なのか。この特徴を感じ取れないのは朴念仁が過ぎる。嫌よ嫌よも好きのうちってな女性の誘い受け……というのはさすがに品がなさすぎるし逆方向に一面的すぎるけれども、実際には女性とその男性との関係の距離は徐々に近づき、そこで恐怖と共に「同じくらい」の女性側の期待感も膨らんでいることが見えてくる。日常の破壊への恐怖は変革への期待と表裏である。

 そこらへんちゃんと拾わないとダメよー、と思っちゃう。とにもかくにも、いかなる解釈を施すにせよ、原初の恋愛詩としてくどくもなく、多層的で解釈の幅を持たせる、とてもよい詩だと思う。

 

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