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塗説録

愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。

枯れない草はない

【現代語訳】
どこに黄色く枯れない草があるのか。
いつまで歩みを続けるのか。
なぜ人は戦わねばならぬのか。
四方をめぐって征服し尽くすまでか。

どこに黒く枯れない草があるのか。
なぜ妻と引きはがされる人がいるのか。
哀れなるかな我が出征兵。
孤独なまま民としてすら扱われていない。

牛でもないのに、虎でもないのに、
彼らを荒野に引きずりまわす。
哀れなるかな我が出征兵。
朝も夕べも暇(いとま)なし。

尻尾の長い狐がいた。
それを草むらに連れていく。
骨組みだけの壊れた戦車で、
あの広い道をただ進む。

【漢文】
何草不黃 何日不行
何人不將 經營四方

何草不玄 何人不矜
哀我征夫 獨為匪民

匪兕匪虎 率彼曠野
哀我征夫 朝夕不暇

有芃者狐 率彼幽草
有棧之車 行彼周道

【書き下し文】
何の草ぞ黃(き)ばまざらん
何の日ぞ行かざらん
何(いか)にすれば人は將(いくさ)せざるか
經(ゆ)きて四方(よも)に營めばなるか

何の草ぞ玄(くろ)くならざらん
何の人ぞ矜(ひとりみ)ならざらん
哀れなるかな我が征きし夫(ひと)
獨り民に匪じと為らん

兕(うし)にも匪(あら)ず虎にも匪ず
彼の曠野に率ゐたらん
哀れなるかな我が征きし夫(ひと)
朝も夕べも暇(いとま)なし

芃(ながお)を有(も)つが者の狐
彼の幽草(くさむら)に率ゐたらん
棧の車を有(も)ち
彼の周(ひろ)き道を行(ゆ)かん。

 詩経小雅から『何草不黃(枯れない草はない)』を訳す。これも普段逐語訳的な私にしてはかなり意訳している。上記タイトルだってそのまま訳すと「どの草が黄色くならないのか」みたいになるんだけど、これだとよくわかんないし情感もないっていうか。書き下し文はある程度まで厳格にしているので、逐語訳はそちらに任せる。昨日SNS等のメディアに投稿したものは書き下しもグネグネと変に考えたところもあって普通に間違えていた。こちらを一旦の完成稿としておく。

 内容は伝統的に周幽王という暴君が周辺民族の平定のために出征を繰り返したことで、兵役を任じられた民が疲弊していると批判した詩とされる。訳も通例に添って兵を不本意に率いる将軍を詠み人とした詩をイメージしている。ま、どう解釈するかは読者の自由。反戦詩と言えなくもないけど、原義からすると絶対的な反戦に結び付けるにはやや飛躍がある。とはいえ戦争の悲惨、特に侵略戦争における侵略者側の不利益と無道性を述べるには十分か。私としては将軍という王命によって不本意な戦争に部下を戦に駆り立てる立場、被害者と加害者の両面を有する者の心情をよく描いていると思う。「兕(うし)にも匪(あら)ず虎にも匪ず。彼の曠野に率ゐたらん。」の"率い"ているのは誰か。王であり将軍である。「彼」の用法は現代語訳で半ば意図的に誤訳のような文面にしているし、最後の節は結構好き放題に訳していたりする。詩の訳ってたのしー!

 最近は漢詩を訳すことの虜になっている。私の漢文翻訳はこれまで逐語訳的で、あまり漢詩の翻訳には自信がなかった。というのも、漢詩は表現の省略や倒置が多く、中国古典流のレトリックの短縮なども多い。なので単純に書き下すだけでも一癖ある。さらに現代語訳では詩情とテンポを重んじて厳格な訳を超えた意訳もした方がよい。私自身があまり現代日本語の詩に興味がなかったので知識面……というより経験面でも不明を感じたというのもある。

 もちろん漢詩自体は好きで、特にこの3、4年は漢詩集を買って読むなどもしており、曹操の質朴な詩などを以前から好んで訳しながら読んでいた。仏典に登場する漢訳の偈(インドの頌歌)を訳しているときもついつい情感を込めてしまう自分にも気づいていたし、猫柳さわわ師匠から教えてもらった漢作詩の書籍も購入している。詩を疎んじていたわけではなく、詩に着手しようとしながらも要は尊重するからこそ遠ざける、まさに"敬遠"していたわけである。

 詩とは前近代における文芸の"王様"だった。近代では小説の台頭とともにその座を追われたが、詩こそまさに文芸そのもの。孔子も「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」といい、また「詩を知らざれば、もって言うことなし」という。詩という自己個人の心情を互いに伝えあうことから、礼という社会的な相互関係を確立する段階に発展し、そこから最後に音楽によって万人が調和する。自己が他者との関係を始める原初の段階に孔子は詩を据えている。孔子は「述べて作らず」と言ってオリジナリティの創作に慎重な態度であったが、後代の儒者は詩作を絶えず行い続けた。有職故実を尊び、経典の注釈学に没頭した儒者たちにとって、詩こそがクリエイティビティの発露だったわけである。自己の情感は誰にも奪うことのできないものだ。

 実は漢文の翻訳を始めた当初は読めないがための意訳をバシバシしていたのだけど(この荘子の翻訳もどきのでたらめ謎通釈なんて二度と書けない!)、ある意味ではこれを改めるために始めたのが徹底した逐語訳で。ここのところ漢詩の役にありがたくも読者の方から反応もそれなりにあり、そのあたりにもう少し挑戦してみようかなー、と思った次第。友人の勧めで谷川俊太郎の詩集も買ってみた。まだ読んでないけど。

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