"漢文練習"カテゴリーの記事一覧
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【現代語訳】
どこに黄色く枯れない草があるのか。
いつまで歩みを続けるのか。
なぜ人は戦わねばならぬのか。
四方をめぐって征服し尽くすまでか。どこに黒く枯れない草があるのか。
なぜ妻と引きはがされる人がいるのか。
哀れなるかな我が出征兵。
孤独なまま民としてすら扱われていない。牛でもないのに、虎でもないのに、
彼らを荒野に引きずりまわす。
哀れなるかな我が出征兵。
朝も夕べも暇(いとま)なし。尻尾の長い狐がいた。
それを草むらに連れていく。
骨組みだけの壊れた戦車で、
あの広い道をただ進む。【漢文】
何草不黃 何日不行
何人不將 經營四方何草不玄 何人不矜
哀我征夫 獨為匪民匪兕匪虎 率彼曠野
哀我征夫 朝夕不暇有芃者狐 率彼幽草
有棧之車 行彼周道【書き下し文】
何の草ぞ黃(き)ばまざらん
何の日ぞ行かざらん
何(いか)にすれば人は將(いくさ)せざるか
經(ゆ)きて四方(よも)に營めばなるか何の草ぞ玄(くろ)くならざらん
何の人ぞ矜(ひとりみ)ならざらん
哀れなるかな我が征きし夫(ひと)
獨り民に匪じと為らん兕(うし)にも匪(あら)ず虎にも匪ず
彼の曠野に率ゐたらん
哀れなるかな我が征きし夫(ひと)
朝も夕べも暇(いとま)なし芃(ながお)を有(も)つが者の狐
彼の幽草(くさむら)に率ゐたらん
棧の車を有(も)ち
彼の周(ひろ)き道を行(ゆ)かん。詩経小雅から『何草不黃(枯れない草はない)』を訳す。これも普段逐語訳的な私にしてはかなり意訳している。上記タイトルだってそのまま訳すと「どの草が黄色くならないのか」みたいになるんだけど、これだとよくわかんないし情感もないっていうか。書き下し文はある程度まで厳格にしているので、逐語訳はそちらに任せる。昨日SNS等のメディアに投稿したものは書き下しもグネグネと変に考えたところもあって普通に間違えていた。こちらを一旦の完成稿としておく。
内容は伝統的に周幽王という暴君が周辺民族の平定のために出征を繰り返したことで、兵役を任じられた民が疲弊していると批判した詩とされる。訳も通例に添って兵を不本意に率いる将軍を詠み人とした詩をイメージしている。ま、どう解釈するかは読者の自由。反戦詩と言えなくもないけど、原義からすると絶対的な反戦に結び付けるにはやや飛躍がある。とはいえ戦争の悲惨、特に侵略戦争における侵略者側の不利益と無道性を述べるには十分か。私としては将軍という王命によって不本意な戦争に部下を戦に駆り立てる立場、被害者と加害者の両面を有する者の心情をよく描いていると思う。「兕(うし)にも匪(あら)ず虎にも匪ず。彼の曠野に率ゐたらん。」の"率い"ているのは誰か。王であり将軍である。「彼」の用法は現代語訳で半ば意図的に誤訳のような文面にしているし、最後の節は結構好き放題に訳していたりする。詩の訳ってたのしー!
最近は漢詩を訳すことの虜になっている。私の漢文翻訳はこれまで逐語訳的で、あまり漢詩の翻訳には自信がなかった。というのも、漢詩は表現の省略や倒置が多く、中国古典流のレトリックの短縮なども多い。なので単純に書き下すだけでも一癖ある。さらに現代語訳では詩情とテンポを重んじて厳格な訳を超えた意訳もした方がよい。私自身があまり現代日本語の詩に興味がなかったので知識面……というより経験面でも不明を感じたというのもある。
もちろん漢詩自体は好きで、特にこの3、4年は漢詩集を買って読むなどもしており、曹操の質朴な詩などを以前から好んで訳しながら読んでいた。仏典に登場する漢訳の偈(インドの頌歌)を訳しているときもついつい情感を込めてしまう自分にも気づいていたし、猫柳さわわ師匠から教えてもらった漢作詩の書籍も購入している。詩を疎んじていたわけではなく、詩に着手しようとしながらも要は尊重するからこそ遠ざける、まさに"敬遠"していたわけである。
詩とは前近代における文芸の"王様"だった。近代では小説の台頭とともにその座を追われたが、詩こそまさに文芸そのもの。孔子も「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」といい、また「詩を知らざれば、もって言うことなし」という。詩という自己個人の心情を互いに伝えあうことから、礼という社会的な相互関係を確立する段階に発展し、そこから最後に音楽によって万人が調和する。自己が他者との関係を始める原初の段階に孔子は詩を据えている。孔子は「述べて作らず」と言ってオリジナリティの創作に慎重な態度であったが、後代の儒者は詩作を絶えず行い続けた。有職故実を尊び、経典の注釈学に没頭した儒者たちにとって、詩こそがクリエイティビティの発露だったわけである。自己の情感は誰にも奪うことのできないものだ。
実は漢文の翻訳を始めた当初は読めないがための意訳をバシバシしていたのだけど(この荘子の翻訳もどきのでたらめ謎通釈なんて二度と書けない!)、ある意味ではこれを改めるために始めたのが徹底した逐語訳で。ここのところ漢詩の役にありがたくも読者の方から反応もそれなりにあり、そのあたりにもう少し挑戦してみようかなー、と思った次第。友人の勧めで谷川俊太郎の詩集も買ってみた。まだ読んでないけど。
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【現代語訳】
大道は平坦なものなのに、
身近なものだと見る者は少ない。
意のままに任せたところで間違いにはならないのに。
物に合わせたところで正しいことにはならないのに。古来から続いてとぐろを巻いた、
鎖のようにぐちゃぐちゃになった、
あらゆる思慮はなんのため?
本当に大事なことは自分にある。さあ心配事なんて天の上に投げ飛ばしてしまえ。
憂鬱なんて地下に埋めてしまえ。
権威ある古典に反逆し尽くして、
風流な文化なんて滅ぼしてしまえ。いろんな学者が小難しいことばかりを言い合う。
火で焼き尽くされてしまえばいい。
志を山の仙境の向こうまで高め、
心を海の向こうまで遊ばせれば、原初の存在は舟となり、
微かなる風が舵となる。
太初の清浄をぐるりとめぐって飛び立とう。
意のままに美しくなれるのだから。【漢文】
大道雖夷 見幾者寡
任意無非 適物無可
古來繞繞 委曲如瑣
百慮何為 至要在我
寄愁天上 埋憂地下
叛散五經 滅棄風雅
百家雜碎 請用從火
抗志山栖 游心海左
元氣為舟 微風為柂
敖翔太清 縱意容冶【書き下し文】
大いなる道は夷(たひらぎ)たると雖も
幾(ちか)しと見る者は寡し
意に任すに非は無し
物に適ふこと可なる無し古來より繞繞(ぐるぐる)とし
委曲(こまごま)すること瑣(くさり)の如し
百の慮(はかりごと)も何の為ぞ
至(まこと)の要(かなめ)は我に在り愁(うれひ)を天の上に寄せ
憂(うれひ)を地の下に埋めん
叛きて五經を散らし
滅ぼして風雅を棄てん百家は雜碎(まばら)なり
用ちて火に從(よ)らんことを請ふ
志を山の栖(ねぐら)に抗(かか)げ
心を海の左に游ばせしめ元氣は舟と為り
微かなる風は柂(かじ)と為らん
敖(めぐ)りて太いなる清きに翔び
意の縱(まま)に容冶(うるは)しく後漢末の儒者である仲長統の漢詩。袁紹に仕えた後、曹操に帰順した。
5年にわたってブログのサブタイトル欄にずーっと掲載している『愁いを天上に寄せ、憂いを地下に埋めん。』はこれが元ネタ。いやー、こんなの私が好きに決まっているっしょ。私の好みを知っている人ならわかるはず。
私にしては珍しく現代語訳を初読者にとって徹底的にわかりやすくしている。「五經(儒教における最も根幹の経典)」を「権威ある古典」、「百家」を「いろんな学者」と意訳する等して予備知識なしで読める……はず。「大道」も意訳してもよかったんだけど、まあいいや。
こんなふうに古典の権威に反逆する詩を唱えながら仲長統は古典の知識になると興奮して激論したとか。うーん、あらゆる面で超共感しちゃうー。前にTruthSocialの人とオフ会した時に一方的にガーーーーーーーーーーーッ! っと中国古典の話をしたので、なんかやべーやつみたいな噂が立ったらしい。むべなるかな。
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天生萬物以養人 世人猶怨天不仁
不知蝗蠹遍天下 苦盡蒼生盡王臣
人之生矣有貴賤 貴人長為天恩眷
人生富貴總由天 草民之窮由天譴
忽有狂徒夜磨刀 帝星飄搖熒惑高
翻天覆地從今始 殺人何須惜手勞
不忠之人殺
不孝之人殺
不仁之人殺
不義之人殺
不禮不智不信人 大西王曰殺殺殺
我生不為逐鹿來 都門懶築黃金台
狀元百官都如狗 總是刀下觳觫材
傳令麾下四王子 破城不須封刀匕
山頭代天樹此碑 逆天之人立死跪亦死天は万物(よろづ)を生みて以ちて人を養ふも、世の人は猶ほ天の不仁なるを怨みたらん。
知らざらんや蝗は蠹きて天下を遍くし、苦しみの蒼生に盡くさるるは王臣に盡くを。
人の生くるや貴賤有り、貴人(たふとき)は長じて天の恩眷(めぐみ)を為す。
人生の富貴は總べて天に由り、草民の窮しみは天譴に由る。
忽ち狂徒の夜に刀を磨く有らば、帝星は飄搖して熒惑高し。
天に翻り地を覆ひて今從り始めん、人を殺して何ぞ須く手の勞を措くべけんや。
不忠の人、殺すべし。
不孝の人、殺すべし。
不仁の人、殺すべし。
不義の人、殺すべし。
不禮不智不信の人、大西王曰く殺せ殺せ殺せ。
我の生まるるが為は鹿を逐ひて來たるにも、都門の黃金台を築くこと懶みするにもあらじ。
狀元百官都も狗の如し、總べて是の刀の下には觳觫の材。
傳へて麾下の四王子に令(しら)せん、城を破らば須ちて刀匕を封ずるなかれ。
山頭は天樹を此の碑に代え、天に逆するが人は立ちても死すべし、跪きても亦た死しすべし。天は万物を生みたまうことで人を養いたまうも、世の人はまだ天が不仁であると怨む。
知らんのか? 蝗が天下のすべてを食い荒らしている。苦しみが蒼生に尽くされるのは、すべて王と臣下のせいなのだと。
人の生まれには貴賤があり、貴人は長じて天の恩恵を為し、
人の生まれの富貴はすべて天に由来し、草民の窮しみも天罰による。
たちまち夜に刀を磨く狂徒が現れ、帝星が風に揺られて熒惑は高らかに輝く。
さあ、天に翻り地を覆う今こそ始めようではないか! 人を殺す手を休めることはない。
不忠の人、殺すべし!
不孝の人、殺すべし!
不仁の人、殺すべし!
不義の人、殺すべし!
不礼不智不信の人について大西王はいう。殺せ! 殺せ! 殺せ!
私が生まれたのは鹿を追って来る(皇帝になる)ためではない。都門に黄金の台を築いて頼みとするためでもない。
状元(科挙の首席合格者)も百官もすべてまとめて狗のようなもの。すべてこの刀の下には死を恐れて震える食材に過ぎぬ。
麾下の四王子に伝達しよう。「城を破ってからも斬殺することに遠慮はいらん。」
山頭の天樹をこの碑と取り換えよ。逆天の者どもよ、立つ者は死すべし! 跪く者も死すべし!
中華邪気眼の定番中の定番である張献忠! 『屠蜀』と呼ばれる大虐殺によって四川の当時の人口は310万人から2万人弱まで減少したという。この詩文はdiscordでもらったもので張献忠のものとして中国のネットに上げられていたものらしいけど、それ以外にソースがない。なんだそりゃ。とりあえずノリで書き下しつつ訳してみた。いやー、10代後半から20代前半の自分のテンションを文字化したような感じで自分のことじゃないのに読んでて恥ずかしい……。デスメタルかよ。
ちなみに七殺碑は以下の方が有名。
天生萬物與人
人無一物與天
殺殺殺殺殺殺天は萬物(よろづ)を生みて人に與ふも
人は一物も天に與ふこと無し
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ天は万物を生じて人に与えたが、
人は一物たりとも天に与えていない。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。こちらは非常に有名で、ネット上のものじゃなくて前近代から存在する伝承。私もTwitterを始めた当初にも言及していた。ただし実際にこのように記された石碑が存在したかというと怪しいらしい。
この検証も前近代には既に為されており、実際に張献忠が建立した石碑は『聖諭碑』といい、以下のような内容だったとか。
天生萬物與人 人無一物與天 鬼神明明 自思自量
天は萬物を生みて人に與へり 人は一物も天に與ふこと無し 鬼神(かみ)は明明たり 自ら思ひ自ら量るべし
天は万物を生じて人に与えたのに、 人は一物たりとも天に与えていない。 鬼神は明らかに存在しているのだから、 自らによって思索し、自らによって考えよ
というわけで、天と鬼神への篤い信仰を通じて人間の自立を勧める内容。あれ? いいこと言ってんじゃん。初めの二句が七殺碑と伝承と同じであり、後の張献忠の暴虐を受けて伝説が出来上がったのかもしれない。
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前回の続き。全訳に着手しているもの
The Analects(英訳論語)
これは語釈にめちゃくちゃ手間がかかっており、そのせいで更新できていないのが明らか。どうしよう。第一章だけは余釈以外ができているので、可能な限り早く上げたい。球陽記事
今年の春に沖縄にいったのがきっかけでネット検索して発見したもの。琉球国の史書。朝鮮、越南に続いて遂に琉球! というわけである。全24巻+附巻4巻+外巻4巻であり結構多いけど第1巻の途中までしか訳していない。何気に19巻+外紀5巻+続巻5巻の大越史記全書より巻数が多い。全訳できる気がしない。でも少しずつやるつもり。陸賈新語
前漢の儒者である陸賈の著書。読んだ感じ、これは潜夫論にもおそらくは影響を与えていて、漢の儒教を解き明かすにあたって重要な典籍だと思う。それに朱熹自身の著した朱子学の入門書である近思録とも構成が似ていて、不明でよく知らないけど後世において自由著述の儒書におけるスタイルの型も確認したいので、その最古級である本書はちゃんと読んでおきたいところ。道基第一はすべて書き下した。全十二章で構成されているのでまだまだ先は遠い……。これまた2023年7月から放置中。神滅論
南北朝時代の儒者の著書。この頃には仏教が大いに流行したので、これに対抗するため儒教は仏教批判の理論を構築することになった。その際のもの。この神滅論は中国の無神論だと説明される文章が非常に多いが、ここでの『神』は『精神』のことであり死後に人間の精神・知覚が消滅することを主張したものであって、一般に言う超越的な存在や信仰を否定する無神論のことではない。仏教は輪廻転生・地獄等の概念を用い、死後の精神の存在を信仰する。これに対して死後に人の精神が消滅すると儒者が主張したもの。儒教において死後の精神を以下に扱うかは実のところ定まった方がない。孔子が怪力乱神を語らず、鬼神を敬してこれを遠ざくとか、未だ生を知らず焉んぞ死を知らんやとか言っていたからだ。儒者が死後の精神の消滅を断じたことが珍しいと言えば珍しい。ネット上だとなぜかブッダが死後の精神の存在を否定したという説がまことしやかに流布しているけど、これは仏者の謀略(たばかり)である。近代化にはまったく貢献せず、その後になって突然あたかも仏教は無神論だの哲学だのであって宗教じゃないんだ主張し始めた恥知らずの仏者どもを……みたいな話は今度また別の機会に。これは一昨日、無理やり訳をすべて終わらせた。なので全訳完了未公開状態である。真誥
序文だけ今年8月にちょろっと訳した。興味はあるんだけど優先順位は高くない。神道の原型を構築したもの……だとオカルト系の人が言っていた。とりあえず序文だけさっさとホームページに掲載しておこうと思う。列子
私はよく論語とか孔子とかの話をしているけど、これらは対話の対象であって素の私に近いのは列子である。内容はこれぞ中国の書籍ってカンジで、おとぎ話や笑話的な説話を含んでおり、肩の力を抜いて是非みんな読んでほしい。私としても徳間書店版の『中国の思想』の『老子・列子』で訳文を読んだだけなこともあって、漢文を読めるようになったらぜひとも原文を読みたいと思っていたし、ブログでも早い段階から何度もめちゃ拙い訳文を掲載している。今ならもっといい感じで訳せるゾ。ある意味では故郷に帰るような気持ちで私も訳してみたくなったわけである。すいすい訳せて天瑞篇がすぐに訳せてしまった。頭にもすいすい入る。読み直してみると、けっこう自分の思想的な軸になっている古典だと改めて思うというべきか、それとも素がそうだから初めからこの古典が自分っぽい考えが多いのか、もはやまったく判断がつかない。ホント自分に馴染む古典だ。こういう存在はありがたい。10年前から言っていることだけどさ、これぞ中国の古典って感じなのよ、私にとって。好き荘子
老子道徳経
那先比丘経
神皇正統記
ただでさえ訳が途中の漢籍がホームページにごろごろ転がっているのに更にこんなにできるわけがない! アホなのか?しかし他にも一部訳をもくろんで手を付けているものが以下。
講孟箚記
律蔵
聖書
いやあ、どうなっちゃうんだろうね……。封神演義
一昨年くらいから訳してて昨年の1月には放置。さすがにこの全訳はやる気なし。どこまで訳すか不明。モチベなし。確かカクヨムに投稿しようとしていたんだった。まだ探したらあるはずなんだけど、とりあえずこんな感じ。うおおお、明日は必ずホームページを更新する!
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興味のある人がいるのかわからないけど、訳している漢籍について現状整理。
論語注疏
やるやる詐欺。とはいえ一応は八佾篇(第三)の中盤である子曰君子無所爭章まで訳している。更新は為政篇(第二)の子曰攻乎異端章まで。本来的にはこれを先にすべきなのだけども。ちなみに漢文翻訳を始めたばかりの頃の拙い訳が為政篇(第二)の二番目の子曰詩三百章まで進んでいたんだけど、リニューアルして新訳が既に追い越している。未公開分は比較的新しく、4月から5月頃に訳したものが多い。放置期間は半年近いんだけど、他は1年とか2年とか平気で放置しているので。三国史記
一応は全訳が完了! 典籍としてはホームページで唯一の全訳公開中の漢籍である。しかし初めての漢籍全訳であり訳が拙いのでリニューアル作業にすぐとりかかったものでもある。リニューアルは現在、新羅本紀と高句麗本紀は二巻、百済本紀は一巻、それと列伝がいくつか公開されている。未公開で訳が終わっているのは、新羅本紀は3巻の翻訳に去年4月に書き下しに着手していたみたい……。完全に放置されとる。高句麗本紀は4巻が既に訳されているが注ができていない。百済本紀も昨年の3月時点で既に3巻がほぼ訳されている。蓋鹵王もすべて書き下されてて現代語訳も半分以上終わっている。なんでこんな中途半端なまま残したんだろう……。更新時期と訳した時期が乖離するのヤだから先にさっさと公開したいと思う。ところで高句麗本紀4巻と百済本紀2巻が更新されていない理由は注である。未公開分は注で詰まっているものが多い。ちなみに公開していない全訳済のものには『立憲法議』『孝経』がある。東明王篇
これも一応は全訳したつもりだったのだけど、実は朱蒙の父親である解慕漱が河伯に結婚の挨拶をするあたりが抜けていた。たぶん私が文章を借りたページで抜けていたんだと思うんだけど、参照元を喪失してよくわからなくなっている。で、原文の参照元が不明の漢文訳を載せるのも問題あるし、三国史記と併行していた訳文だから拙いってこともあって訳を完全に最初からやり直す、三国史記と同様のリニューアルをしていたんだけど、2023年の年始の前後くらいに序を公開した後はちまちま本文を訳したりしなかったりで現在放置中。ただし書き下しはすべて完了しているので、あとは現代語訳するだけである。現代語訳も半分以上終了。これもさっさと公開したいなあ。広開土王碑
これは全訳が完全に終わってリニューアルの予定もない数少ないもの。まあ碑文なんでそんなに長くもないのだけど。ただし注の城の名前が『調査中』となっている。これはもうしばらくは放置する予定。中国史書における古代朝鮮と周辺国の記述
史記から新五代史までの中国正史に記載された朝鮮および周辺諸民族(主に東夷)の列伝等を訳そうという企画。よくよく考えたら最初のアンソロジーと言えるかもしれない。三国史記と並行していたので、案の定リニューアルすることになったけど、拙かった漢書、史記、後漢書がリニューアルできたので後はいいかなーって感じ。①史記②後漢書③三国志④晋書⑤宋書⑥南斉書⑦梁書⑧魏書⑨周書⑩隋書⑪南史⑫北史⑬旧唐書⑭新唐書⑮旧五代史⑯新五代史……という十五史のうち公開しているのは⑥南斉書まで。未公開分については⑦梁書は現代語訳がすべて終わっているが注ができていない。⑧魏書も半分以上は現代語訳が終了している。どちらも2023年5月頃まで作業している。うーん。⑨周書も序文と高麗はすべて訳しており、序文の注はすべて完備。高麗の注が途中で止まっている状態である。ちなみに三国史記と同様、今回も注で更新を投げている。これは改めた方がいいと感じるなあ。それと全訳と一部訳とは別に新たに撰集のコーナーを用意してこれを移動する予定。大越史記全書
外紀一巻が公開中。ちなみにこれも実は外紀2巻の武帝紀は2023年時点でとっくに訳しているので更新はできるはずなのだけど、これも注で投げている。ああ……。易経
これは全訳自体をする気がイマイチ欠けている。公開しているのは天地否のみ。火山旅が既訳でホームページ未公開。過去にTwitterで上げたことがあって本文は保管されているんだけど、アカウントを消したため序文の一部が紛失している。まあすぐに訳し直せるけども。これは全訳するか自体が不明なので当面はキニシナイ(・A・)孝経
正月休みを利用して一昨年から昨年にかけての年末年始に一気に全訳した。ただ、これは余記が主でなんとなく進んでいない。先に訳文だけ公開するのもアリかどうしようか。潜夫論
漢籍の翻訳を始めた動機のひとつにこれを読みたいというのがあったのだけど、読んでみるとイマイチだと感じるようになってモチベが下がっている。序文に代えての後漢書王充伝と後漢三賢王符讃、そして巻一の讃学第一まで公開中。未公開分だと務本第二はすべて訳しているけど余記がまだ書けていなくて更新していない。訳していた時の感覚とか忘れていて書きかけの余記の内容もイマイチだと感じているのでさっさと書き直して上げた方がいいのだろう。未訳部分を新たに訳すような興味はイマイチ削がれている……。遊心安楽道
公開中なのは序文と第一のみ。これは正真正銘の訳したところまでの公開である。少しだけ第二の冒頭を書き下しているけども、それだけ。これは注を付けていないので訳したらすぐに更新できるため、未公開分が存在していない。いやあ、改めて注とか余記は鬼門だなあ。遊心安楽道は個人的に早く訳したい気持ちもあるのだけど、優先順位は高くないカンジ。共産党宣言
公開中なのは序文と①と銘した冒頭のみ。これ実は当初の想定より本文が長いことに気付いて後から分割することを考えた形なので、いくつにわかれるのかまだ自分でもわかっていない。ちなみに堺・幸徳版でいう「東洋を西洋に從屬させた」まで訳しているので、たぶんだいたい半分に達しないくらいまでの進行具合。小品のつもりが思ったより時間がかかっている……。5月から放置。女子解放問題
序文に該当する部分のみを公開中。訳しはじめて気づいたけど、これも論文としては結構長いので、共産党宣言と同様に分割して掲載することにした。序文部分を含めて七つの段落に分かれているので、とりあえずそれに準じて訳す予定。第三段落まで訳しており、注は第二段落まで付しているため、そこまではすぐに公開できる。4月から放置。贈侯官林宗素女士
鞏金甌
国民革命歌
義勇軍進行曲
全訳している……とはいえ一篇の短い漢詩や歌詞なので当然である。このあたりは全訳にひとつひとつ入れるのも変なので、これも新設する撰集コーナーに移動予定。中華民国憲法
これも出オチ感がある。百七十五条中十条まで書き下し、八条の途中まで訳した。モチベない。……という現状整理である。とりあえず注を後回しにしてでも三国史記の既に訳した未公開部分をさっさと更新した方がいい気がしている。続いて中国史書における古代朝鮮と周辺国の記述、大越史記全書の既訳。論語注疏は完成を最優先にしつつも他の漢籍のストックの掲載をもっと優先することにしようと思う。ストックと呼ぶにはもう時間を置きすぎ。書き下し文を読んでいるとうわー、昔こんなカンジだったんだー、ってなる。
長くなったので既に訳に着手しながらホームページにコーナーすら設けていない漢籍については次回に整理する。